ドスくん大解剖

※この記事はアニメ文豪ストレイドッグスの考察です。

死の家の鼠の頭目ドストエフスキー(以下ドスくん)。
影を抱える魅惑的な存在の彼は、一体どのような思想の持ち主なのか。
彼が発した言葉をもとに、彼の内面世界を探ってみた。

ドスくんの死生観はキリスト教の死生観

ドスくんの死生観の根源にあるのは「人は死なない」という思想。
死者は復活する。それがキリスト教の死生観。

死者は蘇らない。これが私たち日本人の思想である。
しかしキリスト教では、人は死んでも無にならず、終末のときに全員復活すると考えている。
そしてその終末のときに、神から審判を受けるのだ。
神の審判に合格した者は、その後神の国で永遠の命を得ることができる。いわゆる天国。一方、不合格となった者は永遠の炎に焼かれて、永遠に苦しみを味わい続ける。いわゆる地獄。

人に死は存在せず、最終的には神のもとに帰り、天国もしくは地獄で永遠に生き続ける。
キリスト教で土葬をするのは、終末のときに肉体が復活できるよう「一時保存」しておくため。
宗教観が違うと世界はこんなにも違って見える。

そしてドスくんはキリスト教の思想に基づいて物事を考えている。そのため、彼にとって死とは終わりではない。神による救いなのだ。

ドスくんが躊躇なく幼い子供たちを兵士にし、彼女たちの命を犠牲に晒すことができたのも、彼女たちに神の救いの手が差し伸べられると考えていたから。幼くして命を落とすことは惨劇ではない。彼女たちは大きな罪を背負うことなく死ぬことで、神の国で苦しみのない永遠の命を得ることができるのだから。
「子らに祝福を。」彼は心の底から彼女たちの幸福を祈っていたのだろう。

生とは苦しみ、死とは救い。死は原罪からの解放である


では、キリスト教において死はなぜ救いなのか?
それは死が原罪からの解放であるから。

原罪とはいわゆるアダムとイブのお話。あまりにも有名なので詳細は割愛するが、絶対に食べてはいけないと言われた知恵の実を食べてしまったことで神から罰を受けて楽園から追放されたというもの。
二人が犯した罪は「神の意図に逆らったこと」「自分の罪を告白せず、悔い改めることをしなかったこと」。

人は知恵の実を食べることで神の価値観ではなく、自分の価値観で物事を判断するようになった。
だけど、そもそも知恵の実を食べる前から人の心には悪のつぼみがあった。そうでなければ実を食べることもない。人は生まれながらにして悪を抱えている。

人の心に潜む悪。そういったものに対する罰が、始まりのときから延々と続いている。
罰として人は空腹にあえぎ、生活するために過酷な労働をし、産むために痛みに耐えなければならなくなった。生きるためにはとにかく多くの苦痛を伴うが、それらは神からの罰である。
私たちは神の罰の中を生きている。
そして死とは、その罰の終わりを意味する。

「罪から来る報酬は死です」(ローマ人への手紙、6:23)

死ぬことで人は罰から解放される。死はまさに神から与えられた救いの手である。

このキリスト教的考え方がドスくんの言葉の背景には存在する。
生とは苦しみであり、死とは救いなのだ。死に至った者は生き続ける者よりも幸福である。そのため、ドスくんはキリスト教的に見れば間違ったことは何一つ言っていないし、彼はただ救済活動を続けているに過ぎない。

しかし彼自身も人殺しという罪を犯すことで地獄に堕ちる可能性があるのだが、それでも彼が人殺しに踏み切るのは、背景にもう一つの信念があるからだと思われる。

非凡人には世界を破壊する権利がある


ドスくんはなぜ地獄に堕ちるリスクを冒してまで、悪を滅ぼそうとしているのか。それはズバリ!彼は自分は地獄に堕ちないという自信を持っているから。
なぜそう思っているかというと、「罪と罰」の主人公がそう思っているから、ということなんだと思う。

罪と罰で描かれているテーマのひとつに「悪を殺すことは悪なのか」というものがある。

何十人もの人を騙し悪行で生計を立てている人を一人殺すことで、その人に騙された人や将来騙されるかもしれない人を救うことができたら、その殺しは正当化されるべきではないか?
罪と罰の主人公はまさにこういった考えの持ち主だった。

人より優れている者(非凡人)には、自分の思想で世界を改良していく責任がある。そのためには、必要ならば倫理の一線を超える権利がある。世界を破壊し、民の命を奪う権利がある。
犠牲なくして世界は変革を遂げることはできないし、変革のない世界は次第に腐っていくだろう。

過去にはナポレオンをはじめ、多くの非凡人が世界を破壊し、民を犠牲にしながらも世界を変革してきたという歴史がある。だから非凡人である自分には、彼らと同じようにその権利がある。
そしてそれはあくまでも「より良き社会の実現」のための尊い犠牲であり、単なる人殺しとは意味が異なる。
数十年もの時間が過ぎ世界の変革が完了すれば、自分は人殺しではなく英雄として称えられているだろう。

罪と罰にはこのような「より良き社会のために行う悪は本当に悪といえるのか」という深い命題が含まれており、この思想はそのままドスくんの思想に繋がっていると思う。
だからTHE・非凡人である彼も、自分の使命だ責務だと思って、世界の破壊を進めているのだろう。

全く本当に非凡人の考えることはよくわからない。少なくとも凡人にはそれが正義か悪かを判断する術なんてない。
彼のことだからきっと何か深い哲学のようなものを持っているのだろう。
その哲学とはなにか、今後本編で明かされるのが楽しみである。


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