黒の時代の太宰が見ていた景色

※この記事はアニメ文豪ストレイドッグスの考察です。

黒の時代編において、太宰がミミックの兵士にじりじりと歩み寄りながら、自らを死へと誘ってくれるよう語りかけた言葉。
「この酸化する世界の夢から醒めさせてくれ」

この言葉を放った太宰の目に、世界はどう映っていたのだろう。
生きる行為に意味なんてない。
そう考える彼の価値観の奥底には何があるのか。
この難解な言葉を紐解いて、彼の心の内を探ってみたいと思う。

酸化する世界の夢とはどういうことか

酸化する世界の夢という言葉を科学の話として捉えたらストンと理解できたので一つの解釈として共有しておく。

「この酸化する世界」…文字通り、物理的に酸化し続ける世界のこと。

「夢」…人の脳が見せている幻想。

私たちの住むこの物理世界には酸素が満ちているので酸化が起こり続けている。鉄が酸化し、食品が酸化し、そして人体が酸化している。
さらに呼吸という現象も実は酸化であり、細胞の中で酸素を用いて有機物を分解し(=酸化反応)、そこからエネルギーを取り出す仕組みが呼吸なのだという。

つまり酸化によって動物は活動するエネルギーを生成している。生きるという行為を物理的に説明すると酸化し続けている状態と言い換えることができる。

「生きること」というのは突き詰めると、酸化という単なる物理的現象でしかないのに、人は名前を持ち、個性を持ち、社会を築き上げた。だけどそれはすべて脳の働きによるものであって、幻想であり、我々は夢の世界の中で生きているといっても過言ではない。

現実にあるのは酸化する人体と酸化する物理的世界のみ。それ以外のものは脳が作り出す幻。

サピエンス全史にも通ずるが、我々の生きる世界は脳が作り上げたものに過ぎず、現実に存在するわけではない。名前も貨幣も組織も生き様も、物理的にそこにあるわけではない。
人の脳がこの世から消滅したらたちまち消えてしまうものは全て幻想と言っても過言ではない。

それを太宰は知っていて生きることが無意味と思っていたのではないか。すべては喪失と死に向かって酸化し続けているに過ぎない。
あらゆることは生と死の繰り返し、サイクルであり、個人の生に強い意味はない。どれだけ輝こうがあがこうが、帰結する場所は変わらない。

そう思っていたからこそ、太宰は生きるという行為に何の意味があるのかわからず、脳が見せる幻想(夢)の中に生きることに価値を見出せず、生そのものから解放されることを願っていたのだと思う。

この酸化する世界の夢から醒めさせてくれという言葉は、まさに太宰の思想の根源の部分を表しているものであり、太宰の放った他の言葉とも通ずる、非常に重要なワードのようだ。


織田作が太宰に与えたもの

黒の時代の太宰が見ていた世界は彼の頭脳で見た世界、冷徹な思考の末の価値観。
我々はただ呼吸という酸化活動を繰り返しながら死に向かって進み、個人の生は幻想以外の何物でもなく、本質的に無意味だと信じていた。

黒の時代以前の太宰には感情というものがほとんどなかったように思う。なぜならそれらは脳が見せる幻想だと彼は考えていたから。頭でそう理解していたから。
だから感情で動く人をくだらないと思っていた。感情に素直に従って生きることなんて自分にはできないと思っていた。

だけど、織田作の死をもって自分の中に初めて強い感情が生まれた。織田作の死は悲しみや怒りを生んだが、同時に自分の中に湧き上がる強い感情に驚きも感じた。
個人の生は無意味だと思っていたが、今自分の目の前にある個人の生と、その喪失は自分にとってまったく無意味ではなかった。

おそらくこの時初めて太宰の中に血が通ったのだろう。太宰は自身の頭でたどり着いた世界を捨て、織田作から受け取った血のある世界を迷わず進む。

織田作の死なくば太宰の中に血は流れず、ポートマフィアをやめるに至らなかったかもしれない。太宰の人生が変わるためには、織田作の死はやはり必要不可欠だったということなのだろう。

太宰が得た「濁り」の行きつく先にあるものとは

文豪太宰は自殺の前に「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という伊藤左千夫の短歌を書き残してこの世を去った。晩年の文豪太宰は濁っていた。濁り続けて何も見えなくなり、何も書けなくなった。

心の濁り。それは文ストの太宰も同じか?彼も濁り続けているのか?そもそも心の濁りとは何か。濁った心の反対語は何か?

大辞林では濁りとは汚いこと、乱れていること、けがれと書かれている。そして同時に仏教での使われ方として悟りの道が開けぬときに生じる邪念とある。そして反対語は「澄んだ心」ではなかろうか。

澄んだ心から濁った心へ。悟りが開かれた状態から邪念の生まれる状態へと進んでいる、そういうことなのだろう。

悟り。黒の時代の太宰はまさに悟っていたと思う。なぜならこの世界の本質をするどく捉えていたから。本質的に個人の生は無意味だと悟っていた。彼にとってこの世界の像は、彼の見る景色は、非常に澄んでいた。

だけど織田作の死によって個人の生は無意味ではないと気づいた。感情が生まれたことで自分の中に血が流れ、人らしくなっていく。
それはまさに仏教としての邪念が増えた状態、濁っていったという状態と同じであり、やはり文ストの太宰も濁っていっているのではないか。

それならば文ストの太宰も濁り続ける結果、文豪太宰と同じく自殺という結末を迎えるかといえばそれは違うと思う。当然ながら、文豪太宰と文スト太宰はまったく別の人格であり歩む道は異なる。この議論は、いわば濁っていく人間は皆自殺に辿り着くのかという議論と同じ次元のものであり、不毛だと思う。

結局のところ文スト太宰が迎える最後がどのようなものになるのかはわかるはずもなく、我々はただただ濁っていく太宰を見守り続けることしかできない。

だけど、その濁りの中にこそ人の儚さ美しさが内包されていることにきっと彼は気付きつつあると、そう信じている。



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