太宰さんからはカミュの匂いがする。

※この記事はマンガ文豪ストレイドッグスの考察です。
単行本のネタバレを含みます。

太宰は絶望していた。
この世界には何もないことに絶望していた。
生きる意味についてどれだけ考えても、身を投じて死を体感しても、それでも生きる意味は見つけられなかった。

そもそもこの世界に「人の生きる意味」なんてものは存在しない。
自分の死は自分の誕生前に戻ることと同義。
ゼロからゼロに戻るだけであり、死に意味はない。
死とは虚無である。
そしてこのゼロ to ゼロゲームの中で繰り返される生もまた虚無である。

虚無の悟り。
ニヒリズム。

太宰の物語は、人がニヒリズムを克服していく物語である。
だけどニヒリズムに陥ったのはなにも太宰だけではない。
歴史上の哲学者や名だたる文豪たちも虚無を悟り、そしてそれを克服する方法を必死に考えた。
その一人がカミュである。

なぜカミュなのか?
実は文ストにはカミュの『異邦人』へのオマージュと思われるシーンがあるからです。

監獄ムルソーでドスくんと太宰がこの世の摂理は「完璧と調和」なのか「偶発と不条理」なのかを言い合うシーン。
「監獄」「ムルソー」「不条理」この3拍子が揃ってしまったら、カミュを想起せずにはいられない。

では『異邦人』とはどんな物語なのか?
カミュの『異邦人』は、ムルソーという主人公が殺人を犯す話。
殺人を犯した動機は「太陽がまぶしかったから」
ムルソー自身が虚無を体現したような存在であり、彼の考えや行動は不条理なものだった。
そして彼を取り囲む世界もまた不条理なものであり、その不条理さ故に彼は死刑となってしまう。
あらゆる不条理にさらされた彼だったが、監獄で死を待つ間にその不条理の持つ優しさに気づく。彼はそれを「世界の優しい無関心」と表現し、不条理の中に幸福を感じた。

ざっくり言うとこんなお話なのだが、不条理の持つ優しさとその価値に気づくこと、それがカミュが伝えたかったニヒリズムを克服する方法だった。

と言いつつも、全然オマージュでも何でもなく、たまたまムルソーを造った異能力者がカミュなだけで全ては偶然の産物という可能性はあるのですが(異能力名『異邦人』であの四角い部屋を造れそう)、太宰がムルソーの中で「不条理」について語ったことに少なからず重要な意味がある気がしています。

さて、何度も出てきている「不条理」という言葉。
理不尽や納得できないことみたいなニュアンスの言葉として使われることもありますが、たぶん太宰が言った「不条理」は哲学で用いられる用語としての不条理を意味していたと思う。

哲学的には不条理という言葉は「この世界は無意味だ」ということらしい。
だから、太宰の「偶発と不条理」という言葉を噛み砕いてみると、「この世界の出来事は偶然の積み重ねにすぎず、世界も人生も無意味なものだ」ということになる。

太宰はなにか生きる意味を見つけたわけではなく、相変わらずすべて無意味で虚無だと思いながらも、それを受け入れて虚無の中で生き抜こうと決意したということなのだろう。

さて、この不条理という言葉を世に広めたのはカミュなのだが、カミュは虚無に絶望した人が取り得る手段を以下のように整理している。

①自殺する
②神を信仰する
③不条理を受け入れる

この中で、最も簡単に到達するのは①自殺するという選択肢だそうだ。まんま太宰さん。そして②はドスくんが近いかもしれない。
しかしカミュは、①も②も何も解決しないとして推奨していない。
不条理を受け入れること。それが不条理による絶望から脱却する唯一の方法なのだそうだ。

太宰が「確かに人は罪深く愚かだ。だからいいんじゃないか」と言えるようになったのも、不条理を受け入れて、虚無な世界を愛していこうと割り切れるようになったからなのかもしれない。

人は必ず死ぬ。生まれたときから死刑を宣告されている。
そんな虚無な生の中で、ただひたすら懸命に命という"ともしび"を燃やすこと。
それはほんの束の間の光の明滅にすぎないかもしれない。
だけど遥か彼方に輝くあの星だって、悠久の宇宙の時間の中では、束の間の灯だ。
生まれては消滅する、それの繰り返しにすぎない。
それがこの世の全てだというならば、自分にできることは与えられた小さな命の灯を燃やし尽くすことだけ。
意味はなくたっていい。この雄大な自然の摂理の中で、ただただ生を享受する、そのことに全ての価値がある。

不条理を受け入れるって、こういうことなのかなと思います。

そういえば、織田作も「世界の中心には何もない」と言っていたから、彼も虚無を悟り、そして克服した人なのかもしれない。
この虚無の話、まだ続きそうです。


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