抽象としての人間は愛しているが具体としてなら話は別だ。

そんな思いを強くしている僕です。こんな感じの話をする機会が最近多くてですね、僕は基本的に「楽観的であろうとしている人」なので人間存在の素晴らしさを説いたり、人間がこの世に産まれ、生を全うすることは美しいことだというスタンスは崩さないのですが、これって結局抽象・一般化された「人間」について語っているだけだったんだなということに気づきました。

というのも、インターネットには吐き気を催すような人間や存在が許せないような人間がザラにいるんですよね。嫌いな人間がいるのは当たり前だし、そのこと自体は僕だって自覚的だったんですが、ここ数年「嫌いな人間」への嫌悪が日に日に増しているような気がしています。
その理由としては、僕はここ数年で随分視野が広くなったと自分で思います。人種差別、環境、経済格差、何でもいいんですが、世界に在る問題は知れば知るほど根が深く、ちょっとかじった程度で判断できるようなことじゃないんですよね。そしてそういう問題の根深さに気が付くと、そういった問題を安易に結論付け、反対意見を揶揄し冷笑する人間が許せなくなってくる。それまでは「そういう意見もあるよね」程度で流せた意見へ憎悪が生まれてくる。差別について知ることは、差別を受けている人へ同情すると同時に、差別をする人間のことが許せなくなる。愛があるから争いが生まれるんだとはよく言われますが全くその通りだと思います。人間は敬服するほどの美しさを秘めていると同時に、畜生以下にまで堕ちる可能性だって秘めていて、後者のような人間は決して少なくない。そんな人間が僕は嫌いで仕方ない。

僕が人間への愛を最も感じるのは創作物を鑑賞している時です。本を読んだり映画を見たりしていると、人間というのは何て繊細で気高い存在なんだという思いを抱きます。創作者を駆り立てる熱意、作品内で織りなされる人間の営み、そういった諸々の力を感じている時、僕は人間・世界への愛を強くします。ただこの要領で好きになった「人間」とは抽象化された「人間という存在」であり、個々人としての人間ではありません。
他方で、人間を嫌いになるのは匿名の悪意を目にした時です。「匿名性」という隠れ蓑を手にした人間が、とりわけ「正義」の側に立った時の残虐性は正しく畜生以下かつ下劣下卑下等で邪悪だと思います。しかし、僕がここまで人間を嫌いになるのはそれが「匿名」だから、顔が見れないからなんです。今までの人生でも嫌いな人間には出会ってきました。ただ面白いのが、僕は嫌いな人間と直接顔を合わせて話している時は嫌いになれないんですよ。僕が嫌いになるのは彼らが目の前から消え、記憶の中へと納まった時、言うなれば「抽象化」された時です。これは匿名の人間への憎悪との共通だと思っていて、つまり、「個人」から個人性が剥奪され、一般的な人間集団という意識の括りの中に収納、抽象化されることで、彼らへの親近感の様なもの、ある種の愛情が捨象されているのではないかと。
まとめると、僕が愛した「人間」も嫌った「人間」も、どちらも抽象化された存在でしかなかったということです。僕は人間を抽象化して理解することで頭の中で好きだの嫌いだのやってるわけです。これは中々面白い気づきでした。

その上で俺はこれからも胸を張って人間が好きだと言って行こうと思います。なぜなら、前述した通り僕は「楽観的であろうとしている人」なので。だって世界や人生を肯定し、人間を愛し、沢山の人から愛されて生きていく人って美しいじゃないですか。法律よりもルールよりも美しさに殉じていたいという思いがずっとあります。生きる指針なんてそんなもんで良いんだと思いますよ。

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