日々の渇きとマジックミラー号

常に「何か」が欲しい。
やっぱ替えが効かないとか唯一性とかには渇きを感じる。
漫画を読むたび絵とストーリー作りの力が、曲を聴くたび作曲と楽器とイカした喉が、YouTubeを見れば行動力と企画力がそれぞれ欲しいなと思う。

まあそれでも特に毎日何もせず、それによって多少は気に病むこともありながら決定的なダメージを受けることもなく、ただだらだらとそういう「才能と努力を感じるもの」を摂取していると、あるものに頻繁にエンカウントする。「何もない君でも生きてて良いんだよ」系の創作物に。

話が違うじゃないかと思った。 
至極読みやすく引き込まれる展開の文章に出てきても、想像もつかないほどの反復で手に入れたであろう美麗な絵の吹き出しに言われても、トーシロでも分かるバイブスブチアガりの華麗なメロディラインに乗せられても、いやなんかそれちがくね?としかならない。
「何もない」を「何か」で肯定されてもむなしいだけだ。
溺れてる人間に浮き輪の売店を教えるような、不登校になったあの秋に学校に行けとしか言わなかったクソの役にも立たないスクールカウンセラーとかと一緒だ。
ずっとそう思っていたある日、いつも通りの息苦しさに類似する物を見つけた。

マジックミラー号なのだ。
こちら側からはあちらが否応なしに見せつけられる。恥ずかしい。否定されているような気がする。あんなにもまともに普通に生活しているのに私はなんてことをしているのだろうと狂おしいほどに思う。本当は向こうはこちらを認識すらしていないのに。
完全にマジックミラー号だ。毎日を塞ぐような、徐々に窒息していくようなあの感覚は鏡のトリックだった。最低なイルーゾォかお前は。
そのことに気付いた時、最悪だと思うと同時に少し面白いと思った。 人はみな生まれつきマジックミラー号の中にいる。そして「何か」を手にした時、マジックミラー号のドアを開ける。
「何もない君でも生きてて良いんだよ」系の創作物を産み出している人たちは、自分がかつていたマジックミラー号を、その中にいるかつての自分のような人たちを、マジックミラー号と街の分かり会えない無情さに手を差しのべようと、そのような創作に耽っているのかなと思った。
自分もいつか外に出れるだろうか、あまりにも息苦しい、このマジックミラー号から。

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