20240522/23/24

逸脱と遊び。ゆとり、としての遊び。着る、纏う、隠す。モード系は面白い。いや、「モード系」と括る必要なんて、おそらく微塵もない。ファッション全般が堪らなく楽しい。内なるマッチョイズムを開花させた連中が、自己表現の一環として纏うのが「筋肉」だと言うのなら、私は装いから「私」を組み立てる。生権力の網から逃れる方法を考えよう。国家には生殺与奪の権限だけ、それだけを与えておこうではないか。十分な糖質を与えているのに、蛋白質も欲しがるだなんて、本当に贅沢ね。「君たちはどう生きるか」。そんなキャッチフレーズを用いる権限は、吉野源三郎と宮崎駿にだけ渡しておけばよい。理想的な「生」の在り方なんぞ、私が決めるべきであって。「健康で、健全な生活」のもとに管理されるべきでないしね。男だから、筋骨隆々であるべき。いや、本当に五月蝿いわね。この命題はなかなかに危ない。取り扱い注意。隠された生権力による圧。その香りに鼻を利かせなければ。ブーストされた雄々しさが待つ先は「オッサン」。きっと「オッサン」だろうな、と感じている。んで、もうちょっと説明を加えていくと。「健康で、健全な生活」というのが、十中八九「異性からの“モテ”」に照準を合わせている、のではなかろうか。目的と手段、の関係性になっているように思われる。生物としての、最も本能に近い(その「文脈」においてプリミティヴな)欲望に端を発しているから、尚更厄介と。私は、「モテ」への指向性を持ち合わせちゃいない。そもそも「“モテ”とは何か」について具体的な定義が必要だと思われるし、漢臭い「男」も好きではない。二郎系ラーメンに感じる、あのギトギトした嫌悪感と同じものを感じるから。強烈に。ここまでして「漢」らしさへの強い嫌悪感を語る私自身も、性別の括り上は「男」。いつか、どこかでボタンを掛け違えれば、「漢」に豹変してしまいかねない。それが不安でしょうがないのだ。私の持つ「男」要素と不安感を漂白するために、レディースを着るようになった。スカートを履いてみようと思った。通販サイトの履歴は、本とレディースの服で埋め尽くされた。ゆらゆらしたシルエットに遊び心を感じつつも、かっちりとキメている様に脳を焼かれた。こんがりと。モード系街道、爆進中。

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