映画「よこがお」 -- 前を向いて、生きる

映画「よこがお」を見てきた。

見終えてから既に36時間ほど経っているのだけれども、いまこれを書きはじめている今も、あまり言葉がまとまっていない。なにを書けばいいのだろう。

深田晃司監督作品

深田晃司監督の作品には確かにいつも圧倒させられている。3年前に見た「淵に立つ」は初めて見たときに身の毛のよだつ思いがした。今まで自分は(大変失礼な言い方なのだけれども)”ホンモノの映画を見たことがなかったのだ”、とまで思った。この「淵に立つ」1本でわたしは深田監督のファンになり、とりあえず新作・旧作ともに近場で上映されることがあれば、映画館に足を運ぶことにしている。

なので、深田監督の新作というだけでみることは決まっていた。ただここのトコロ正直映画に対する熱がすっかり冷めてしまっている。例えば、年始にある映画をみたのだけれど、今思うともっと考える余地、みる余地があったはずなのに、なんとなく向き合う気にならなくて受け流してしまった。わたしは今、映画に深い関心を寄せていない、というのが正直なところだ。

だから、今回ももしかしたらそうなるかもしれない。受け流して終わってしまうかもしれないと思いながら、劇場に足を運んだ。結果はこの文書を生成されている時点でおわかりの通りだ。わたしは何かに突き動かされるようにキーボードを叩いている。3年前ほどの時間はないけれど、わたしはこの作品に向き合い、受け止めようと思っている。

生きる

なによりも、生きていくこと、誇りを捨てないで生きていくことを描いた作品だと思った。

歪んだ歯車は戻らない。すれ違いには気づけないし、溝も埋まらない。市子は、あるいは市子と基子は、取り返しのつかない間違いを犯したのかもしれない。お互いにとって。

だけれど、それでも生きていく。自分はなにも間違ったことはしていないと、誇りを捨てずに生きていく。確かに、(うまく言えないが)復讐にとらわれすぎて醜い姿を呈するときもある。ただやはり市子は、終始立派なのだ。その姿が何より自分には希望に見えた。

無責任だけど、最後のシーンが終わったあときっと何か良いことがあると思えた。

論理の飛躍・論点のすり替え

この話は加熱する事件の報道に対しての、主に加害者側を描いた作品だ。加熱する取材はちょうど今も行われているコトだろう。

わたしはワイドショーを見ない。飛躍した論理が使われていたり、論点のすり替えが当たり前に行われているので、みる気にならない。見るに耐えない。最近も、芸人の反社会的勢力からの金銭授受の問題がいつの間にか芸能プロダクションとその所属芸人の対立ショーに変わっていた。

そしてこの映画でもこうした飛躍・すり替えは出てくる。もともとは事件の幇助をしたのかしていないかが問題であったはずなのに、最後には市子本人の性癖にまで話が飛躍していた。冷静に考えれば全くもってナンセンスだ。少なくとも、そんなことが裁判の証拠資料にでも挙げられたとしたらたまったものではない。しかしこれはフィクションのワイドショーや週刊誌だが、現実のワイドショーも似たようなことをしている。

そう、現実にも似たようなことが行われているのだ。そしてわたしたちが、報道機関に対して毅然と、誤解されないよう振る舞うことはとても難しいことだろうというのは容易に推測できる。映画の感想ではあるのだけど、改めて報道機関が容易に民間人接触をはかり、過剰な取材を行っているのがまかり通っているのが狂気の沙汰にも思えてくる。

何か解決する縫合が思いついているわけでもなんでもない。ただただ、怖いと思うだけだ。わたしが何かしなくても、例えばわたしの親族が話題になった事件の被害者や加害者にでもなれば、わたしも餌食になる可能性がある。そんな国に生きていて、そんな報道が許されていて、そんなものを毎日見ている人がたくさんいる国なんだなと思うだけだ。

その他思ったこと

箇条書きで。

・今の市子の生活がとても粗雑であることを示す場面。そのときに椅子の上にお椀が乗っているのがすごいと思った。それだけで生活の退廃っぷりが伺える。
・獰猛な音からの無音のエンディング、というのはとても素晴らしかった。

本当は音楽についてもコメントするべきなんだけど、そもそも音が流れていたことに映画が終わってから気づいた。自然すぎて注意しないと気づけない。

最後のシーン

未鑑賞者が見ても意味がわからないと思うけど、ネタバレというわけでもない気がするので書く。鑑賞したこと前提でこの節は書きます。

最後のシーン、音がなる前後の非常に緊迫したシーン。それが終わったときに、そう、それでいいんだと思った。激情に駆られてしまっても、誰も責めることはできないだろう。少なくともわたしにはできない。ただ彼女は耐えた。それが素晴らしいと思う。

もう交差するはずがなかったふたりの人生の、最後の一瞬の接点。でも存在しないはずの接点は、やっぱり存在しなかったことにするべきなんだよね。

例えば彼は謝りたいと言ったけど。わたしは終わったことを謝りたいなんて、ただのエゴだと思うから。何か悪いことをしてしまったのなら、今も仮に当事者が生きているのだとしても、一生当事者と接することなく、胸の内で謝罪し続ける以外に償いの方法なんてないのだと思う。

市子は決して謝りたいとは思っていなかったと思うけど、それでも彼女があの場面でその接点をなかったことにするのは本当に難しいことだったと思う。

何の変哲もない交差点での、人生の交差点。その一瞬をなかったことにしたのが素晴らしい。でも同時に、その一瞬が、無いよりはあったほうがよかったとも思うのです。

終わりに

久しぶりに映画の感想を書いた。以前はこんな文章を、もっとたくさん書いていたのだけど。

映画を見てもなにを書いたらいいのか、なにを書けばいいのかわからないのが続いて。ただ映像を眺めることしかできなくなっていたわたしに、久々に映画の楽しみ方を思い出させてくれた、そんな作品になった。

暗い話だと取られがちだろうが、誇りを持って生きるということを緻密に描いた作品だとわたしは思う。ぜひ、最後の轟音を映画館で聴いてきてほしい。

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