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「具なしうどん」を祝日に

カネコアヤノ/祝日   (YouTube)

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「お腹が痛い」
帰り際、私がそう言うと、彼はあたふたして、半ば無理やりに私をソファに座らせた。
「あたたかいもの作るから、とりあえず横になっててください」
寝室から取り出してきた毛布を私に優しく掛けて、彼はいそいで台所に向かう。

「そんなんで治るものじゃないの。それに…」
「明日は休みでしょう?なら今日は、そんなに早く帰らなくてもいいじゃないですか」
そういう問題じゃない。
でも彼は、シミひとつないエプロンをつけ始め、
「俺、最近料理始めたんですよね」と笑う。

彼の真剣な眼差しを裏切れなくて、私は少し横になることにした。時刻は23時を回る少し前。いつもなら、もう電車に乗っている時間だ。
ここからの夜は長くて、寂しい。
彼の嘘に救われている自分がいることに気づく。

19歳の彼が作ったのは、具のないうどんだった。
「すみません。いれるものがなくて」
「料理人なのに?」
私がからかうと、彼は顔を赤らめて、何かを言いたげにした。
「うそうそ。いただきます」
湯気の中に顔をつっこみ、うどんをすする。
「うん、おいしい」
「よかった」
彼は本当に安堵しているようだった。
「早希さん、きっと料理上手だから」
「そんなことない」
ほんとうにそんなことはない。
いや、なにかしら具は入れるけれど。

料理は心だと思う。
誰かに笑ってほしい、誰かに喜んでほしい。
誰かを脳裏に浮かべて作る料理は、ほんとうにおいしくなると、私は思う。
この「具なしうどん」には、そんなものがたくさん入っているような気がした。
「全然、私のうどんよりおいしい」
私の言葉に、彼は一瞬疑念の表情を浮かべたが、
またすぐに「よかったです」と笑った。

ソファに置かれた携帯電話が震える。
「あ、俺だ」
彼は電話を素早く取り、その後、苦い顔を見せた。
「すみません、ちょっと電話してきます」
彼は声を潜めながら、玄関へと消えていく。

「30歳の女が家にいるって聞いたら、君のお母さんはなんて言うだろうね」
リビングに帰ってきた彼に、私は言った。
「驚くんじゃないですか?まぁでも、何も言わせませんよ」
「生意気な息子は嫌われるよ」私は言う。
「うるさいんですよ。いちいち」
彼は、携帯をカーペットに投げ落とした。
こういう話を聞く度に、彼は本当に愛さるているんだなと実感して、安心した。

愛は、受け継ぐものだと私は思う。
人は他人に愛された分を、またその次の世代に受け継いでいく。人は愛を受ける存在から始まって、やがて、与える存在に変わっていく。そうやって、人はここまできたのだと思う。

そしてそれが正しいとするのなら、この状態はきっと間違っている。
なぜなら、19歳の彼が愛情を与える側に回り、30歳にもなる私が受ける方だからだ。
私の愛をいれるコップには穴が空いていて、その全てを無駄にしてしまう。
愛を与えるにも限界がある。勇気がいる。
だから私は、出会ったすべての人を不幸にしてしまう。

「ごちそうさま。じゃあそろそろ帰るね」
彼が立ち上がろうとするわたしを呼び止めた。
「あの早希さん」
彼は唾をのみこんだ。「今から、身の丈じゃないことを言うぞ」の合図だ。

「明日は祝日です。せっかくなら泊まっていってください」
私はすぐに断った。
このままだと、彼までもを悪い方に引き摺り込んでしまうと思ったから。
「ごめん。それはできない」
「それは、僕が未成年だからですか?」
彼は強い口調で問う。
「違うよ」
「じゃあなんで」
「私は、あなたの優しさを無駄にしてしまうから」

「あなたといると、私はこのままでいいんだって思える。でもこのままじゃいけないとも、思うの。
このままずっといると、いつかあなたのコップの水は空になってしまう。あなたの愛を、私はすべて無駄にしてしまうの」

「俺は、それでもいいです」
玄関に向かう私を、引き止めるように彼は言った。

「それじゃダメなの。一度空になったコップは、すごくもろい。ちょっと風が吹くだけで割れてしまう。あなたには、私みたいになってほしくない」

「そのコップを治す方法はないんですか。俺じゃ治せないんですか」
彼は声を振るわせて言った。
頬に大きな涙が流れる。

「ごめん、私にはわからないの」
彼に背を向けて、私はかかとを踏んだままドアノブを掴んだ。
彼の顔を見たら、私まで泣いてしまいそうだったから。

「早希さん!」
彼はサンダルを履いて、わたしを呼び止める。
私は振り向かない。

「明日は祝日です。朝から来てください。
 一緒にうどんでも作りましょう」
彼はずっと手を振っている。
私が振り向かないことをわかっていて、彼はずっと私が見えなくなるまで、手を振り続けている。

私が振り向けなかったのは、これまでにないほど泣いていたから。明日ぐらいはコップを治してみてもいいのかもしれない。
その手助けを、彼にしてもらってもいいのかもしれない。

30歳、秋の夜。

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