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三日月の夜

会社から出ると日がくれていた。わたしはため息をひとつついた。まあ、いつものことだけど。言い聞かせるようにつぶやく。
空を見上げると西の空に、絵に描いたような三日月が浮かんでいた。
このまま帰ろうか、それとも彼氏の家に寄ろうか。式の打ち合わせもしたほうがいいだろうしな。
空を見上げていた視線を下ろす。見たことのある顔が会社の向かいの角を曲がるところだった。
角を曲がった男は、同じ課の新人だった。仕事は抜群にできるがわたしは彼のことをあんまり好きじゃない。あまり同僚と話さず、プライベートは誰も知らない。謎の多い社員だと噂されている。社員三十人程度のわたしの会社では、彼はすでに有名人だ。
どこか寄るのだろうか。会社のだれも知らない新入社員の私生活。特ダネだ。わたしは興味半分で後をつけてみることにした。
彼は駅の方向に歩いていった。後ろを振り向かずに足速に歩いていく。わたしは小走りで電柱から電柱へと渡っていった。彼はわたしに気づいてはいないようだ。探偵にでもなった気分だ。彼は駅から電車に乗るのだろうか。それだとおもしろくない。
駅までのアーケードには、飲み屋やラーメン屋なんかが並んでいる。
ラーメン屋の前で追いかけていた彼の姿が見えなくなった。ああ、そこでご飯食べて帰るのね。
わたしはそのままラーメン屋の前を通り過ぎようとした。彼が食べ終わるのを待つほど暇じゃない。ラーメン屋を通り過ぎると、そこに目立たない路地があることに気がついた。
路地を覗くと彼のうしろ姿が見える。わたしは彼を追った。路地は細く暗かった。こんなところになんの用だろう。
彼が右を向いて立ち止まった。暗くてよく見えないが扉のようだ。彼はカバンからなにかを取り出して扉に差し込んだ。鍵か。彼は、扉を開けるとそのなかに入って姿が見えなくなった。扉が音を立てずに閉まった。

わたしは彼の入った扉の前に立っていた。腕組みして扉を眺める。扉の横の壁には両手を広げたくらいの電飾が掛かっていた。彼がこの扉の奥に入ったあと、すぐに扉の前まで来た。彼が店に入って十分くらいすると電飾に火が入った。
電飾は淡い水色で、「BLUE HEAVEN」と読めた。店名だろう。
腕時計を見る。わたしはそれから三十分、店の前で腕組みしたまま動けなくなっていた。
お店には窓があった。ほんのりとあかりが漏れている。人の気配はするが、すりガラスで中は見えない。わたしが見ている間、お客さんはなかった。
「よし」
むりやり声を出した。わたしは扉に付いている古風なドアノブを、勢いをつけて回した。
扉を開け中に入る。空気が変わった気がした。オレンジ色の電球に照らされた、飴色に艶の出たカウンター、四脚ほどのスツールが見てとれる。黄土色の壁紙はタバコの煙にいぶされ、カウンターにマッチしていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。彼だ。わたしの後輩だ。
彼の髪は丁寧にまとめられ、上品なからし色のベストの下の白いシャツはピンと張っていた。紺色の蝶ネクタイが、クールな印象を与えている。
スーツのときとは全く違う印象だ。さっき入っていくのを見なければ、同一人物と気が付かなかったかもしれない。
わたしは、わざと音を立てて扉を閉めた。カウンターの前まで突っかけると怒った顔をつくり思いきり息を吸い込んだ。
「いらっしゃいませじゃないわよ!あなた、こんなところでなにしてるのよ!うちの会社じゃね、副業は禁止よ!」
前のめりに一気にまくしたてた。
彼は顔色ひとつ変えなかった。わたしの勢いが足りなかったのかもしれない。
「このことは、上司に報告するからね!」
彼の鼻先に右人差し指を突きつけ、もうひと押しした。
彼はあきれたように、目をつぶると両手のひらをこちらに向けてわたしを制した。口には微笑が浮かんでいる。
「落ち着いてください、センパイ」
片目を開けるとカウンター前のスツールを指さした。
「とりあえず、お掛けになりませんか」
わたしは、彼の冷静さに自分を取り戻した。大声をあげる自分が恥ずかしくなってきた。わたしはお尻を持ち上げ、背の高いスツールに腰掛けた。
「このこと、どうすんのよ」
わたしは声のトーンを下げて訊いた。
彼は答えなかった。会釈してカウンターの奥に下がった。
「なにか作りましょう」
彼の影から声が聞こえた。映画やテレビで聞いたことのある、シェイカーを振る音が続く。
シェイカーの音が止まり彼が影から出てきた。わたしの目の前にコースターを敷き、カクテルグラスを置いた。シェイカーからカクテルを注ぐ。
「正式にはレモンは飾りません。今夜は、三日月があまりにもきれいだったもので」
目の前に置かれたカクテルグラスには、レモンの三日月切りが飾られていた。
「このカクテルの名前はホワイトレディと言います。こちらもいっしょにどうぞ」
添えられた小さな丸い水色の和皿には、三日月型のホワイトチョコレートのようなものが盛られていた。
わたしはグラスを目の高さに持ち上げると、ひとしきり吟味した。さわやかな香りが鼻をくすぐる。グラスを唇に寄せひとくち含んだ。ジンのひねた苦味と、レモンの鮮やかな酸味が口に広がる。おいしい。
今まで、カクテルは甘すぎると思っていた。
完全にバーテンと化した新入社員が口を開いた。
「まず、副業の認識が違っております。わたくしにとってはこちらが本業でございます。どちらかと言うと、副業として会社員をやっているつもりです」
わたしはカウンターにひじをつき、ほおを乗せた。
「じゃあ、会社の方を、やめちゃえばいいじゃないよ」
聞こえよがしにつぶやいた。バーテンは聞こえないフリをしているようだ。三日月型のチョコを口に放りこむ。チョコが歯に当たると口がしびれたようになった。噛むと中から音楽が生まれてくるようだった。そのメロディーは切なげなような悲しいようなしらべだった。わたしは、レクイエムだろうか、と思った。
口からはじまったしびれは、頭まで広がった。ひとくちでもう酔っぱらったのだろうか。
遠ざかる意識の向こうに小さな三日月が数え切れないほど散らばっていた。わたしはその無数の三日月の上でステップを踏んでいた。いっしょに踊っているのはもちろん婚約者だった。メロディーはワルツに変わっていた。
そうだ、このダンスのあと、わたしは彼にプロポーズされるのだ。そしてわたしは、冗談ぽく、「結婚してあげる」って答える。
なぜだろうわたしは、踊りながら涙を流していた。

カウンターに突っ伏したまま目がさめた。
バーテンは先ほどと変わらない姿勢でわたしを見ていた。こころなしか目がやさしく見える。
「お客さま。先ほど、副業の会社をやめれば、とおっしゃってましたよね」
わたしは顔を起こした。
「そうよ。水商売なんだから、儲かるんでしょ?ここだけでも充分なんじゃないの?」
バーテンは小さく咳払いし両手をカウンターの上にふせ目を閉じた。
「実はこのバーは、まったく儲からないのでして」
わたしは聞き返した。
「え?」
バーテンが目を開けた。
「この店に来られるかたはあまり多くありません。それにお客さまはみな、センパイのように、お金をお持ちにならないかただけでございますので」
そういえばわたしがいる間にも客は来なかった。
「金にならない?失礼ね、ちゃんと料金は払うわよ」
言いながら、わたしの目はカウンターの上の三日月のチョコに吸い寄せられていた。
わたしは目をつぶった。体が小刻みにふるえる。わたしは思い出した。
自分が三日月の夜、会社帰りに車にはねられたことを。
そして、婚約者がわたしのなきがらにくちづけしたことを。
わたしは目を開けて周りを見た。
わたしの足は透け、もう消えかけていた。
わたしは、わたしの時間がなくなりつつあるのに気づいた。
「わたし、彼と結婚してあげられなくなっちゃった」
わたしはバーテンに向かって、精一杯の笑顔を作った。
薄れていく視界に、バーテンの彼が深々と頭を下げるのが見えた。

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