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半身

カウンターの奥でグラスを磨いていると店のドアが開いた。
わたしはドアの方を見ずに声を掛けた。
「悪いんですがまだ開店前です。お引き取りを」
この店は深夜だけの営業だ。稀なことだがそれがわからず、開店前に入ろうとする客がいる。
ドアの方からしわがれた太い声が聞こえてきた。
「ワシは客じゃない。ここの客に用事があるんだ」
わたしはドアの方向を見た。ドアと、その横の丸いすりガラスの窓から西日が入ってきていた。逆光で姿は見えにくい。シルエットの腰が曲がっていた。逆光に目が慣れてくると杖をついた男性が確認できた。男は老人と呼ばれるのがふさわしい年齢に見えた。男は、深呼吸して曲がった腰に手を当てた。腰を伸ばそうとしたようだが、わたしの目にはあまり変わらないように見えた。男はわたしの言葉を無視して店に足を踏み入れた。
「哀れな老人にイスを貸してくれんかね」
厄介なことになった。わたしは悪い予感を、ため息とともに吐き出すと、男にカウンターのイスを勧めた。
店は狭く、イスはカウンターにしかない。カウンターのイスは背の高いスツールで、わたしは男に肩を貸すことになった。男は見た目よりも軽く、触れた腕は木の棒のようだ。わたしは、男をなんとかイスに座らせることができた。イスに掛けた男の足は、床につかず落ち着かないようだ。何度かお尻を動かしてポジションを調整すると、男はポケットからハンカチを取り出し、顔と毛の少ない頭の汗を拭った。
彼は両手でカウンターに頬杖をついた。
「ああ、のどが乾いた」
男は聞こえよがしにつぶやいた。
わたしは頭に血がのぼるのを感じた。カウンターの裏にまわり深呼吸する。落ち着こう。自分に言い聞かせる。着ているシャツの外していた一番上のボタンをとめた。バックヤードのハンガーに掛けてあった、からし色のベストに袖を通し紺色の蝶ネクタイをしめる。開店前の一連の動作で、なんとか気をしずめた。
冷蔵庫から水のボトルを出しガラスのコップに注いだ。男の前に紙製のコースターを敷き、あさっての方向を見ながらその上に置く。
「どうぞ」
無遠慮な侵入者に対して、わたしの精一杯の抵抗だった。
「ありがとう、ありがとう」
男は顔をほころばせ、大げさに礼を言うとコップを持ち上げた。コースターがコップについていく。そのまま男は水をひと息に飲み干した。
「酒はないのか?」
飲み干したコップをカウンターに置くと、男は口の片端を持ち上げて尋ねた。わたしはやっと男の顔を正面から見た。
「それよりもご要件はなんでしょう」
男の問いに、わたしは問いで返した。半分無視するつもりで、わたしはカクテルグラスを手に取り磨きはじめた。
男は神妙な顔で口をつぐんだ。わたしが次々とグラスを磨き、置く音だけが店内に響いている。男は観念したようにポケットからくしゃくしゃになった写真を取り出し、カウンターに置いた。
「この女性に見覚えはないか?」
わたしはグラスを磨く手を止めた。写真をカウンターから取り上げると、写っている女性を見る。写真の女性は五十歳台くらいだろうか。わたしは頭の中の記憶と照会してみた。記憶にはなかったが、どこかで会ったような気もする。わたしが答えずにいると男は続けた。
「もっとも、この写真は十年以上前の写真だが」
わたしの頭の中で一ヶ月ほど前に来られたお客さまの顔と一致した。
写真と比べると髪は白くなりシワが増え、なおかつサングラスも掛けてはいたが、面影があった。男は古い写真で悪いと頭を下げ、頭を掻いた。
「妻は自分の目が悪くなってから写真に映りたがらなかったもんでな」
わたしは表情を変えないように努力した。首を横に振ってみせた。
「さあ、存じておりません」
どちらにしても当店のお客さまの情報を漏らすわけにはいかない。わたしは写真を丁寧に男の前に置いた。男はうつむき深いため息をついた。
「ここは死者の来るバーだと聞いたのだが」
声は低くかすれていた。男の言う通りだった。ここは死んだ者が次の場所に行くまでの、心の安らぎを得る場所だった。
「ご存知だったんですね。では生きているお客さまが、なぜ当店にお越しに?」
男が写真を取り上げ自分の顔に近づけると、愛おしそうに見つめた。
「妻は、この写真を撮った直後に大病を患ってなあ。失明するわ、歩けなくなるわ、散々だった」
男は自嘲するように笑った。
「でもな、ワシはあいつと一緒にいるだけで、もう充分に幸せだったんだよ」
男の口がへの字に歪んだ。肩が震えていた。男が、ポツリポツリと話し始めた。

駅に向かって車椅子を押していると、乗っている妻がサングラスの顔で振り返った。押しているわたしを見る。
「歩きタバコ、やめなさいよ」
妻の見えていないはずの目に、ワシはにらまれた気がして足を止めた。
わたしは大きくひと息タバコを吸うと、その煙を妻の顔に向かって吹きつけた。妻の顔がゆがむのが見える。くわえていたタバコを指でつまみ、道の右端に向けてはじいた。
「ち、うるせえババアだな。車椅子、押さねえぞ」
ワシは笑いながら言い返し、また車椅子を押しはじめた。
妻が車椅子のタイヤを両手で押さえた。車椅子が止まり俺は前につんのめる。妻の背中にワシの頭が当たった。反動で妻が車椅子と一緒に転げ、そのまま車道側に落ちる。
妻が車椅子をささえにしなから立ち上がった。片足を引きずるように車道の上を向こうに二歩あるいたところで膝から崩れ落ちた。妻は車の通り道の真ん中でこちらを向いて座り込んだ。
わたしは叫んだ。
「あぶない!そんなとこで座るんじゃない!」ワシの声が聞こえていないのか、妻の顔は笑っているように見えた。クルマの急ブレーキの音が聞こえた。

ワシはカウンターに向かってため息をついた。
「それでおしまいさ」
ワシは顔を上げてバーテンを見た。ワシは右手で拳を握るとカウンターに叩きつけた。腕が肘まで痺れる。
「あいつが死んでオレが残されたんだ」
痺れた腕で頬杖をついた。
「妻は、勝手な奴だと思わないか?」
ワシはもう一度顔を上げバーテンを睨んだ。
無表情なバーテンの顔の、雰囲気だけが柔らかなものに変わった気がした。
「なにか作りましょう」
今まで黙っていたバーテンが口を開いた。
「本当なら、生者には作らないんですが」
前置きすると、バーテンはカウンターの奥に姿を消した。シェイカーを振る音がリズミカルに聞こえてくる。
音が止まった。再び現れたバーテンは今度は彼が着ているベストと同じ、からし色の布製のコースターをワシの目の前に敷き、カクテルグラスを置いた。彼の持つシェイカーから鮮やかなエメラルドグリーンの液体がグラスに注がれる。ワシは自分の目が見開かれているのを感じた。
「なんだ?緑色のカクテルか」
バーテンが口を開いた。
「グランド・アイと言われるカクテルでございます」
バーテンは続けた。
「このカクテルの材料のアブサンというリキュールは、幻覚効果があると言われており、できた当時は禁止されていたこともあるそうです」
バーテンが口の端を、ほんの少しだけ上げた。
「横紙やぶりのお客さまには、ぴったりのカクテルと存じます。舐めるようにお召し上がりください」
バーテンが会釈し、カウンターの中で一歩下がった。
「ふん。お前の知ったことか」
ワシはグラスを右手でつかみ口に運ぶと、中身をひと息に飲み干した。口の中でミントの爽やかな香りと、薬草のような複雑な味が弾けた。ワシは、自分の目の前が真っ白になるのを感じた。次の瞬間、ワシは亡くなったはずの妻の頭の中にいた。妻の考えていることが手に取るように分かる。景色に見覚えがあった。ワシは気づいた。時が戻ったらしい。今、妻は、あの時の時間にいるのだ。

わたしは自分の乗った車椅子を主人に押してもらっていた。毎日のことだ。目が見えなくなってずいぶん長く苦労させてしまった。見えはしないが、車椅子を押す主人の腰はだいぶん曲がってきたようだ。
車椅子生活になって何年経ったろう。十五年くらい?二十年は経っていないか。
わたしは目と足以外は健康と診断されている。これからあと何年足せば、わたしはこの人を解放してあげられるのだろう。
タバコの香りがした。彼は医者にタバコを止められているはずだ。
「歩きタバコ、やめなさいよ」
わたしが言うと、彼はタバコの煙をわたしの顔に吹きつけてきた。
嫌味に聞こえたんだろう。それでもいい。彼だけは健康に生き続けてもらいたい。わたしがいなくなってからも。
ああ。彼のタバコの香りがなんて愛おしい。彼の声が聞こえてきた。
「ち、うるせえババアだな。車椅子、押さねえぞ」
そうだ。わたしは、気づかないうちに歳を取り過ぎてしまった。
車が行き来する音が大きくなってきた。もうすぐ車道なのだろう。
わたしは車椅子の両輪を手で掴んだ。つんのめった彼がわたしの背中を押し、わたしは車椅子から前に落ちた。わたしの足、お願い。もう少しだけ力を貸して。わたしは足を引きずり、クルマの音が聞こえる方にやっと二歩進んで座り込んだ。彼の叫び声が聞こえる。
大丈夫。あなたはわたしがいなくとも。わたしは声の聞こえる方向に向かって笑いかけた。

肩を揺すられて目が覚めた。だれかがワシを起こす声が聞こえる。ダメだ、起こすな。目が覚めたら妻は、ワシの妻が完全に消えてしまう。
願いは届かなかった。思い出した。ワシはバーにいるんだった。カウンターに突っ伏した顔を上げるとカウンターの中のバーテンと目があった。
「お客さま、閉店でございます」
バーテンは穏やかな表情だった。右手、入ってきたドアの方を見た。ドアの横にある窓の、すりガラスの向こうは暗く、バーの中は暖かな色の照明で満たされていた。バーテンがこちらに回ってきた。バーテンの手を借りイスから降りた。ゆっくりとドアに向かう。バーテンがドアを開ける。
ワシはカウンターを振り返った。置かれたままになっている空のカクテルグラスを見つめた。
「妻は、幸せだったろうか」
答えは、バーテンの表情からは読み取れなかった。帰ろう。空虚な自宅を思う。ワシはカウンターを背にすると、彼から杖を受け取り店の外に歩き出た。空を仰ぐ。暗い空に星は見えなかった。視線を路地に戻し杖をつき歩く。通りの角でもう一度店を振り返った。
バーテンが、この失礼な客に深々と頭を下げるのが見えた。

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