新型コロナウィルスの変異パターンは、1種類ではない。
そもそも、毎年のようにインフルエンザウィルスに感染する人たちがいて、それもまた1種類ではない。聞くところによると、今回の新型コロナウィルスは世界各国で蔓延しているわけだが、その変異パターンは3種類あることがわかったらしく、これら3種類の変異パターンを持つ新型コロナウィルスが、このあとどういう変異をしていくかは未知の領域であり、複雑化する可能性が懸念されるという。
鳥インフルエンザについては、当初、鳥⇒人感染はないとされていたが、その理由としては、このウィルスが増殖できる環境が42度の体温に適していて、鳥が最もその環境に適しているためで、人の平均体温35~36度では増殖できないとされていた。ところが、人と鳥の中間体温38度である豚へ感染し、結果的に人への感染が確認されたことで大量に養鶏の殺処分が成されることとなった。
初期段階のウィルスがどういう特性であるかは、その後の終息時期を証明するものではないということであり、今回の新型コロナウィルスも、終息を期待するにはまったくの時期尚早で、国内のみならず、諸外国の感染拡大状況も死者数推移も、着地点はまだ見つかっていない。
ロシアでは9万人以上が感染しているとのことで、国の存亡も危ぶまれる。人口1億5000万人ほどの規模で10万人に迫る感染者数。大したことのない数字のように思えるが、10万人の患者を受け入れる医療現場の状況を考えるだけで想像を絶するが、院内感染クラスター、陰性結果が出て退院したら再感染⇒家庭内クラスター、こういうことが国内外で起きている。
そうこうしているうちに、ウィルスは変異する。それも、3パターンあるというのだから、ワクチンや特効薬のような即効性のある薬品が開発されるまでの1年ほどの間に払う犠牲は膨大な数となる。
これが現実なのだとわかると、安易に終息を期待したり、ガマンし切れなくて外出したりすることが、良い結果を生まないことは誰にでもわかりそうなもの。国を批判している場合ではなく、身を守る術をちゃんと理解しておくことに時間を投じるべきではないだろうかとボクは思う。
世界経済がマヒしてきている。きっと仕事の在り方も、普段の生活も、これまでの概念が通用しないレベルまで変わっていくのかもしれない。いや、変わらずにいられるほうがおかしい。世間がどう騒いでいようと、自分が感染しないことに尽力しなければならない。
だからと言って、現状を憂い、嘆くことにも意味はない。ソーシャルディスタンスという言葉は、今だけの概念ではない。きっとこの先ずっと、「感染」というワードがニュースで流れる度に、多くの人たちが過敏に反応するに違いない。ということは、備蓄しておくべきものも、誰もが、どの家庭においても、どの会社においても、正しく認識されていく。
そうして、人々は、加速的な変化に対しても認識をアップデートせざるを得ない状況下に追い込まれていき、ある時からそれが当たり前になり、「常識」と化す。始めは受け入れがたい新しい概念でも、人々は徐々に慣れていく。早い人は、真っ先に学んで活かそうとする。
変化を嘆くのではなく、楽しめるくらいの好奇心があると、守る術もすぐに見つけられるようになるのではないか。過去は過去。現在は現在で、未来は未来。
パラダイムシフトは突然やってくる。その時、一番苦しむのは、過去に固執する人たち。未来志向の人たちは、まず行動が伴う。悪いことばかりではない。新しいこの文化に慣れていくために、新しいライフスタイルや働き方を生み出していくことが、今すべての人々がかんがえなければならないこと。
なぜこのタイミング?などと考えたところであまり意味はない。もう起きてしまったのだから、前はこうだった、昔はどうだった、そういう議論は不毛。ボクは個人的に、変化を好む性格をしているけれども、どう変化しても、時間をかけてでも適応・順応していける強さは持っていると思う。
パソコンと一緒。スマホと一緒。OSがAndroidなのかAppleなのかWindowsなのか、使い始めはわからなくても、使い続けていくうちに慣れていく。中身のアプリケーションソフトも一緒。人に聞かなくても触っているだけでわかってくる。
変化も一緒。ずっと変化を捉え続けて行けば、今がどういう状況かも、これから目先の動向としてどうなっていくかもわかってくる。耐えがたいことは、自由を奪われたからそう思うのではなく、大切な人を失ったり、希望を見失ったりすること。
そんなに悪くない、そう思いながら変化を楽しむことができれば、希望を見失うこともなかろうよ。