見出し画像

先人たちが歩んできた道

 正しかったか間違っていたか、時代の移り変わりとは、そういう二律背反的な見方では測りようがないもの。数々の失敗を繰り返し、多大な犠牲を払いながら、未来においても有効かつ有用であるとされるものを進化させてきた。

 しかしながら、それら全てが有益な結果をもたらすということではなく、悪用されることもしばしばあり、現代でさえ、一つ一つの道具、薬品、技術、思想、知、それらの扱い方を誤ることがある。

 他人の歩む人生が正しいように見えて、うまくいっているように見える時というのは、ただ羨むばかりで自分では何の目的もなくいたずらに日々を過ごしている時だろう。

 でも、そういう日々も人生にはなくてはならない。むしろ、一つことを信じて全力で突き進む生き方というのは、その分だけ多くの犠牲を払っていることとも取れる。

 ピッチャーが肘を壊したことで失われる選手生命、医者が手先の自由を失うことによる手術不可など、高い能力を必要とする仕事ほど、失った時の絶望感はきっと尋常ではないだろう。

 果たしてそういう橋を渡ろうとする生き方が正しいのかというとそういうわけではなく、そうと決めた本人は、失ったとしても本望、そういう気概でその橋を渡るのだ。

 極端な話、ピッチャーに求められる球速に限って言えば、機械には絶対に勝てないわけで、マウンドに200㎞の球を放るマシーンを置いておけば、人類はすべからく打ち取られる。仮に真芯でボールを捉えたとしても、200㎞の圧にバットそのものが耐えられず、容易にへし折られるに違いない。

 では、打つほうも機械にしてみればいいではないか。200㎞の剛速球を投げるピッチングマシーンを、その圧に耐え、なおかつ全球を真芯で捉えるセンサー搭載のバッティングマシーンで迎え打つ。もはや野球ではなくなる。

 どこかこう、人間の限界に挑戦することこそ美であるかのような思想が現代にまで及んでいることは、個人的には腑に落ちない。

 超人的な人の真似をしたとしても同等のことができるようになるわけではない。真似をしたくなるのは人間の心理としては当然のこととは言え、それで満足するようではまさに自己満。

 でも、自己満を批判する者も存在する。他人の人生が気に入らないのか、見下したいのか、どういう意図で批判するのかが曖昧な者の言うことは、そっくりそのまま本人が欲していることに等しいと言える。

 これまでは、力が全てみたいな思想が当たり前だったけれども、これからは、一番であることには大して意味がなくなっていく。一時的に一番になったとしても、それはずっとは続かない。

 企業だって、これまで需要のあった商品やサービスがずっと売れるというわけではなく、これに台頭する他社の新しい商品やサービスによってシェアが奪われるため、どっかりと腰を下ろして扇子を仰いでくつろいではいられない。

 日本企業は、ライバルが日本企業であるうちは競い合いを続けることはできたが、グローバル化が進んだことにより、日本企業と争っている場合ではないことにようやく気付く。

 資本主義は本当に崩壊するのかというと、どうもそうではないらしいことがワクチン外交から見て取れる。結局、国を支えるのは企業であり、金なのだということを改めて証明した。

 「金さえあれば」と誰もが思い込むような社会は、人が進む道を曇らせる。どう転んでも全ての人々が潤沢な収入を得られるような仕組みは生まれない。そのことには誰一人として見向きもしない。それはなぜか、不可能だからだ。

 だから働くのは当然だ、と。国でさえ働く義務を課すのは、この難問を解き明かす術を持たないからにほかならない。その上で、納税の義務を課している。生きたければ働け、働いて給料をもらったなら所得税を払え、生活に必要なものを買う時には消費税を払え、家を建てたなら固定資産税を払え、車に乗るなら自動車税を払え、と。

 消費者物価指数2%は達成されるはずがない。社会保険料、市民税、払えなければどんどん膨れ上がっていく。国を運営していく上で必要な社会保障制度や税制が、どれだけ国民の生活を圧迫しているのかを考えると、馬車馬みたいに働いたとしても何も残らない。

 能力のない者は安い給料で働くのは当然だとでも言っているよう。糖と酸素を体内に循環させるために必要な赤血球を人に例えると、その数が減れば脳の機能は著しく低下することになる。それが今の日本で起きている少子化。

 例え月給の高い仕事がゴロゴロ転がっていても、人が少ないのでは話にならない。例えどんなに上質な高級品を売ろうとしても、買う人がいないのなら無価値に等しい。そろそろ高級の意味を問えと言いたい。

 高い生活水準で生きることが必ずしも人を幸せにするわけではない。生活水準が高いということは、本来必要ではない浪費もすることになるわけで、その浪費を貧困層に振り分ければどれだけの人たちが救われるだろうかと思えてならない。

 浪費を辞めない限り国も人も潤うことはない。人口が減っているのに人々が潤わないのは、海外に資金流出しているからではないか。誰もが当たり前のように使っているGoogleやAppleなどの海外企業のサービスは、見えないところでパイプとなっている。Amazonもそう。

 国防のために法改正までして利用を禁止する国もあるほど。資金だけではなく、情報量で言えばこうしたIT企業が囲い込んでいるような状態。日本は情報戦に負けたと言っていい。

 その一方では、中国が国内各所で地下資源を掘り当てている。シェールオイルに石油に、何億トンという莫大な量。国際情勢はまた新たな変化を迎えるに違いない。脱炭素目標がどこまで機能するかは見物。

 先人たちが歩んできた道は、進化する前のことなのだから正しいも間違いもない。見るべきは目先の未来のこと。「金さえあれば」と思っているうちは、いつ足元を掬われても不思議はない。

 諦める必要のある事はさっさと諦めたほうがいい。手の届かない所にあるものを追い続けても明らかに届くことはないだろうとわかっていて追うのはナンセンス。

 でも、直感的に人はその時々で感じ取ってはいるはず。進む道を変えることも一つの選択であって、これもまた正しいも間違いもない。

 とりあえず体力については置いておいて、大海を身一つで泳ぎ続けることも、地中を身一つで掘り進むことも、誰かが道標となってくれるわけではないのだから、ぐにょぐにょと不規則な方向に進み続けるに違いない。

 生きるということも本来はそういうものであって、こうすればこう、そうすれば幸せになれる、なんていう安易なものではない。人よりも幸せに生きようなどと思わないことだ。その考え方自体がそもそも不幸でしかないのだから。

 

いただいたサポートは、今後のnoteライフ向上のために活用させていただきます!