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人が学習したり、挑戦したり、試したりすることの真髄は、自身がどのくらい下手であるかを直視することである。

 ボクの好きな言葉の一つ。スラムダンク、湘北高校バスケ部監督、安西先生の言葉。何度でも拾うよ、この言葉は。

 シュート練習2万本を達成した桜木花道は、試合でシュート1本を決めるべく、ひたすらシュートを放った。今自分が当たり前のようにできていることは全て、幾度となく繰り返されたことの結果であり、元は当たり前のことだとは思っていなかったことなど幾らでもある。

 人から教えてもらうことも大事だけれども、自分の頭で考えていろいろと試し続けることのほうがずっと大事。そうやって、試そうとしたり、工夫しようとしたりすることを、いろんな人が否定することで本人にバイアスがかかり続ける。

 正しいか否かも定かではないことや、誰もやったことがないようなことも、まるごと否定して、あたかも「やってはいけないこと」だとか「余計なこと」だとかいう洗脳をすることに必死になる人がいる。

 人が自分の成功体験を語ることがいけないんじゃない。それが正しい方法であるかのように指導することがいけない。人にはポテンシャルに差があったり、パーソナリティーに違いがあったりするわけで、「この方法でやればうまくいく!」などといった指導方法が、誰にとっても最適であるとは到底思えない。

 指導をする側は、指導を受ける側の人たちそれぞれの特異性をちゃんとくみ取ってやらないといけない。人それぞれとは言う割に、指導方法に柔軟性がないと、指導を受ける側の人たちはどんどん硬直していく。

 イイトコドリ、これだけを考えればいい。自分にとってこれがいいと思える方法や知識を貯め込んで行けばいい。その上で、自らアクションを起こす時には自分の頭で考えて、工夫すればいい。

 当然、うまくいくこととうまくいかないことに二分され、どちらかというとうまくいかないことのほうが多いだろう。そうした多くの失敗をし続ける過程において、自ら感じ取ったものが自分にとっての「正」ではないだろうか。これを否定されようがどうしようが、自分にとって正であることに変わりはない。

 鵜呑みにする癖のある人は、どんどん自分自身を追い込むことになる。時には素直な人ほど指導する側に振り回されることもあるだろう。同じことでも、他者と全く同じようにすることが自分にとっての正ではない。そこには何一つ工夫もなければ思考も廻らないわけで、いくら同じことをやっても思い通りにはいかない。

 こうして書いていることは、ボク自身が感じ取って言語化していること。誰がどう捉えようと、それは他者の課題であって、自分の課題ではない。

 なんかこう、仕事で、他者の技術にばかり意識が向かって、自分で工夫するってことを試そうとしない人ってやっぱり多いんだなって思う。試すと小言を言われたりお叱りを受けたりすることは確かにある。でも、試すってそもそもそういうものなんじゃないの?

 ボクは始めから疑念も一部持ち合わせた上で、周りの人たちのやっていることや言っていることの中から、良い部分や悪い部分を感じ取り、仕分けをするようにしているんだけれども、何もこれは否定しているのではなく、単に自分の感じ方に従って見極めようとしているだけのこと。

 他の人たちのアレコレが、全て自分にとって正しいなんてまずあり得ない。疑念とはつまりそういうこと。本当かなぁ~?って思うことは別にいけないことじゃないでしょ?ちゃんと自分で感じ取ったり考えようとしたりしていることの証。試した結果うまくいけばラッキーだし、失敗したら叱られたらいい。

 叱られたり小言を言われたりすることを恐れたり面倒臭がったりして工夫することも考えることも放棄するような人に、ボクは心底興味が無い。そりゃーね、たくさん質問してくる人はかわいいよね。失敗を前提で試せばいいのに。これぞまさにクリエイティビティでしょうに。

 人に聞かなくても調べればわかる知識に関しては、人に聞く前に自分で調べろって話ね。そういう人に時間を食われる人の立場も考えないと、と思うよ。特にボクのような年寄りは(笑)若い人たちは、そもそも経験値が少ないわけで、どんどん質問すればいいと思う。

 自信家ほど箍を外されやすいというのは世の常。だから、下手さを露呈しつつ、数字を稼ぎたい。いつもは寡黙に、たまには派手に。そのほうが面白い。

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