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【ダイの大冒険】守るためにも「武器」は必要

 アニメ「ダイの大冒険」を観ていて、初めて意識を惹かれた言葉。

※正義無き力が無力であるのと同時に、力無き正義もまた無力なのです。/アバン

 では、無力であることは悪かと問われれば、決してそういうことでもないけれども、無力であるが故に守れないものも多い。

 でも、人間は、手に入れた力を常に適正に扱えるわけではない。身の丈に合わない力を手にすれば、相応に欲も抱くことになる。

 力が全てだという考え方は、結局、自分だけではなく関わる全ての人たちをも不幸にする。目には見えない力とは、人々を魅了するものでありながら、一方ではその力によって虐げられたり、多くを奪われたりする人たちも存在するため、一概に力を持てばいいというものではない。

 知力、財力、能力、腕力、戦力、体力、精神力、判断力、思考力、分析力、洞察力、圧力、抑止力、などなど、「力」が付く言葉を列挙すると、どれも目には見えない力であることがわかる。

 これらの力を行使するのであれば、自分のためであろうと、他者のためであろうと、目に見えないものであるからこそ、具現的に形にして扱わなければならない。

 時々、自分の両方の掌をじっと見つめながら、普段は考えないようなことを考えることがある。「手はなぜ動くのか」「手はなぜいろんな道具を扱えるのか」と。至極当たり前のことではあるものの、科学的観点を無視すれば、とても不思議に思える。

 自分の身体の一部でありながら、思った通りに、イメージ通りに動かすということ一つ取っても人によってその精度は異なる。その上で道具を扱うとなれば、行き着く結果も異なって当然。

 100人が100人、全く同じ作りのペンを持ち、同じ言葉を書くとする。例えば、「東西南北」と書いたとすれば、そこには100の精度で書かれた東西南北という文字が並ぶ。

 同様に、100人が「リンゴの絵」を描いたとすれば、100の精度で描かれたリンゴが並ぶ。

 湯を沸かす時、現代ではワンタッチ後1分少々で100度の湯を沸かせるケトルを使っている人たちは多いだろう。今となっては生活必需品の一つでもある。この製品を設計し、製造し、販売する人たちがいる。

 独占禁止法の下、如何なる商品やサービスも市場を独占してはならないため、同種の製品をいろんな企業が製造販売している。用途は同じでも性能、サイズ、カラー、フォルム、ウェイト、そして価格などが異なる。

 どうして独占してはならないか。その理由の一つとして考えられるのは、例えばケトルメーカーが国内に1社しかないとして、そのメーカーが独占的に販売しているケトルに先天的な欠陥があり、重大な事態を引き起こす可能性があると判断された場合、当然リコール問題として浮き彫りになるにはなるけれども、これに代わる同種の安全性を満たした製品がなければ、人々の生活に多大な影響を及ぼすからに外ならない。

 スマホキャリア現4社が市場で競い合っているのもそれが理由に含まれる。つい最近d社が通信障害を引き起こし、200万人前後に影響を及ぼしたとされるニュースが報じられた。d社以外のキャリアスマホを使っている人たちはまったく影響を受けず、「ふーん、そうなんだ」程度で済まされている。

 市場原理に基づいている国内の商品販売、サービス提供は、各種各分野において独占することを禁止しているからこそ、トラブルが生じた際に最小限の被害に留めることができている。独占禁止はリスク分散の役割を担っている。

 それでも、業界No.1を高々とアピールする企業が未だになくならないのはなぜなのか。それはもちろん、ビジネスだからであり、市場のシェアをより多く獲得することで収益が安定するからだ。

 でも、それも何かしら重大な問題が起きてしまうと、どんなに高品質な商品サービスでも急速に需要を失い廃れてしまう。市場原理とはそれほどまでに冷たい。

 シェアNo.1を目指すことよりも、本来はトラブルを最小限に抑えた上で半永久的にシェアをキープすることのほうが企業としては重要なはずなのに、企業でさえも欲をかき、不正を隠蔽したりデータ改ざんしたりする。

 世界トップの企業も、海外の企業に売上で抜かれてしまい首位陥落してしまうことが起こるのは特別珍しいことではない。時代の流れや変化に合わないビジネスモデルから脱却しない限り、ずっと急成長する海外企業に抜かれ続けてしまう。

 ただ、負けるということはシェアが減ったということで、確実に何かで劣っていることに等しい。じゃあ、その何かとは一体なんなのか。それはおそらく、数々の力がNo.1のシェアを維持するために適正に機能していなかったとも考えられる。

 力とは、血液に例えたり、電気に例えたりするとわかりやすいだろう。血液に例えれば、全身に酸素を供給するため。電気に例えれば、同じ電気でも電流電圧次第でいろんなものを動かしたり明かりを照らしたりする。

 組織としてちゃんとトラブルなく機能しているということは、十分な酸素が供給されていて、電気も適材適所で効率よく活用されているということ。

 人も体内のどこかで血管が詰まれば重大な問題を引き起こす。心筋梗塞や脳梗塞など。

 民間企業で過労死が労災認定されるといった事例が時々起こるが、人の身体に例えて言えば血管の破裂。電気に例えて言えば停電。人が生きていくには血流は絶対的に必要なものであるはずが、血管が詰まることで血液は通常の役割を果たせずに血管を破裂させる。電気が止まればまず真っ先に家中の家電製品、電気を必要とするものは全て役に立たなくなる。冷凍庫のアイスが溶けてしまうのも時間の問題。

 何かを動かすための源となる力、原動力も、始めは良くても途中何かしらのトラブルが起こることで当初の役割を果たせなくなってしまう。

 力に陶酔しても良いことはないと思うのは自分だけだろうか。昔は力次第で何とでもなったことは多かっただろうけれども、今はどうもそうではないらしい。

 前もってしっかり準備することをあたかもちゃんとしているかのような認識を植え付けられている人たちは少なくはない。宿題や受験勉強がその代表例だろう。

 毎回宿題をしっかりやって、受験勉強もしっかりして、大学に合格できたとしてもそれはゴールではなく、何の確証もない通過点に過ぎないのだということを教える大人たちが周りにいただろうか。

 なんで宿題をしなければならないのかという質問に答えるとすればどう答えるか。「学校の先生がやれと言ったから」「みんながやっていることだから」自分もやらなければならない、そう認識することには心底抵抗があった。ちゃんとやる人は優等生と呼ばれるけれども、学校で優等生だったとしても社会に出たらそうではなくなる。

 こうすればこうなれる、みたいな近道的なアドバイスをする人の言うことなんてボクはどうも信じられない。儲け話は特にそう。確証がないことについては本来疑念を抱くもので信じるまでには至らないはずなのに、正解だと信じ込んでしまったことが今までになかったかというとそうではない人たちはきっと少なくはないだろう。

 どんなに準備をしても、未来がどうなるかはわからないのだから、せっかくした準備も役に立たなくなることだって当然ある。

 「明日は遠足だ、しっかり準備してから寝よう」そう思い準備してから寝て起きたら、外は暴風雨のため遠足は延期・停止とかいう事態が起きても不思議はない。

 しっかり準備する人たちというのは、人の力では何ともできない変化については蹴極振り回されるしかできないし、準備をしたという事実が無駄になり、ガッカリさせられることもきっと多いだろう。

 期待もそう。想定される結果以上に期待する人たちというのは、想定を下回る結果に至るとほぼ100%ガッカリすることになる。

 元々人間は無力な生き物。思い通りに行く人生が幸せとは限らないのだから、どんな力を手に入れようと、そこで幸福な人生が確定するわけではなく、生きている以上、ずっとゴールはないということを自覚することが大事ではないのか。

 他人とマウントを取り合っている場合ではないのだ。未来のことを饒舌に語るよりも、今目先のことをどうするかを模索するほうが重要。1mmでも想定と結果の間に差があれば、5年10年と経てば経つほど差が以来ていく。

 二本の線の角度の差が「2度」とわずかに開いているとすれば、100㎞先では双方の線の先端が飛んでもない距離になっている。

 これまで無力で何も持っていないとしても、手に入れたり、気付いたり、身に付けたりすることで、1年先、10年先の未来が変わっていく。各省のない未来よりも、目先のことを具体的に考えられるようであれば、未来はその延長線上にあることになる。

 長い人生なのか、短い人生なのか、捉え方は人によるだろうけれども、人生が長いことにはあまり意味がなくて、短命だろうと桜花するほうがいい。どうせ生きるのなら、自分が手にしているモノもあらゆる力も、適正に扱うことを考えたほうがいい。そうすれば、大きく踏み外すこともないでしょう。

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