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もしかすると東大に合格するよりも「信じる」ということは難しいのかもしれない。

 東大なんて全く別次元の世界。どれほど難しいかすらも知らずに今まで生きてきました。元々勉強に興味がなかったということが、自分の将来を何一つ考えていないことに等しいのだということは、身に沁みて体感しているところです。でも、どんなに勉強が出来ても、どんなに頭が良くても、人を信じるということの難しさは、そうではない人と少しも変わらず難しいことなのだとボクは思います。

 世の中には【悪意のドリームキラー】【善意のドリームキラー】がいるらしい。そして、どちらにも共通していることは【過去に囚われていること】です。自分もしくは世間の過去、またはこれまでに数値化されたあらゆる統計などを「だから無理なんだよ」という理由付けに創造的回避をさせようとする人たちのことドリームキラーと言います。

 特に、自分の親や学校の先生、そして会社の上司は、どちらかのドリームキラーになりやすい立場ではないかと思います。小さい頃、一度だけ親に「野球をやりたい」と言ったことがあります。しかし、「将来野球で食っていけるのか?」という意味のことを言われ、ボクは簡単に諦めてしまいました。「簡単に」というと語弊がありますが、本当はやりたかったと今でも思っています。

 中学時代、元々左利きだったのを、右でもボールを左同様に投げられるように一週間練習してできるようになった過去があります。両投げ左打ち。バッティングのほうはからっきしダメでしたが、投げることに関しては、スピードもコントロールもそこそこ自信があったんですよね。だから、親に打診してみたのですが、善意のドリームキラーの声に心を折られてしまいました。

 こんな言い方をすると親は機嫌を損ねるかもしれませんが、間違いなく、親としての善意の思いから返した言葉だったと今は認識しています。その一方では、あの頃野球を始め、高校時代に甲子園を目指せたなら、きっと人生最大の夢を見ることができただろうと思っています。地元の高校で1カ所、甲子園経験高を受援したこともありますが、普通科を受験したものの学力が至らず不合格でした。

 熱量が足りなかったなと、今は思います。本当にやりたいことは「やりたい」と声に出すだけではなく、しつこく食い下がるくらいの熱量が必要だと思いました。ボクの親は、決して理解を示さない人ではありません。物事を論理的に捉え説明出来る人だからこそ、理解を示すべき時は理解を示してくれる親です。ただし、「如何なる結果に至ったとしても後悔はするなよ、自分で決めたことなのだから」という意味の言葉を必ず最後に付け加えます。

 親元を離れてからも、その言葉を、ボクは「信じて」生きてきました。実のところ、自分の過去には後悔と言えるほどの後悔はないかもしれないと今は思います。ただ記憶から消え去っているだけかもしれませんが、もしそうなのだとすれば、後悔するほどのことではない生き方しかしてこなかったとも言えると自分で思います。一方では、自分で選んで進んできた道だから後悔などあろうはずがない、とも思うことができます。

 「あの時ああすればよかった・・・」「あの時そのことに気付いていれば・・・」「あの頃自分がやりたかったことをやっておけばよかった・・・」などと、人が人生の最後に後悔することというのは、箇条書きにした「〇〇しなかったこと」なのだとボクは考えています。つまり、後悔のない生き方をしたければ、「やりたいことをやる」の一択だということです。

If you want to spend NO REGRET & HAPPY LIFE, you just do right now that you really want.
(もし後悔のない人生を生きたければ、本当にやりたいことを今すぐにやるだけだ。)

 シンプルでストレートなこの言葉、理屈でもないこの言葉、ただ「今すぐに動け」と言っているこの言葉、実際にやろうと思っても簡単ではないけれども、ボクはこの言葉が好きです。これって仕事にも通ずることだとも思えるところが好きですね。

 職場の風土や慣習、ルールや規則に洗脳され過ぎると、創造的回避のための思考が先行するようになる、これを集団組織における一つの解と定義したいと思います。ここで言う「洗脳され過ぎる」の意味は、決してそれらを否定するものではなく、ネガティブに解釈した場合の洗脳のことを意味します。つまりですね、そう、「理想と現実のギャップを理由に創造的回避のための思考を先行させてしまう」のです。「意味がない」とか「無理無理」などと言って、どんなに素晴らしい会社の方針や理念をもネガティブに捉えることしかできなくなると、以後、目の前の現実が酷ければ酷いほど、本来人に宿っている創造的思考ができなくなる悪習に染まってしまうのです。

 さらに、これが別でどういうことを意味するかと言いますと、自分が勤めている会社の社長の言葉さえもネガティブに捉えてしまう悪習ということです。根拠もなく、意味がない、無理無理、または「上司が無能だから」という前付けをして、【自分だけはそれで納得しようとする】、実に自分に都合の良いように解釈することで、愚痴や文句を垂れ続けるんですね。さらにさらに、そこまで行ってしまうと、もうね、【普段から他人のことばかりが気になって仕方がなくなる】んですよねーきっと。

 例えば、ご高齢のじいさんばあさん社員たちのうち、大半は、自分が退職する日までのカウントダウンをしているとします。こういう再雇用の社員たちは、もはや「心ここに非ず」で、改善とか対策とか、そんなことは眼中にないってことが明らかで、会社や社会への貢献も、後世へ何かを残すための活動も、全部「面倒くさい」「ダルい」「やりたくない」「わからない」「こんなことやっても意味がない」などとボヤくようになるんです。彼らは、今まで通り、楽して、周りの同年代の社員たちと中身のない会話に花を咲かせ、毎月の給料がもらえればそれでいいと思っている人たちですからね。彼らがそんなふうにボヤくようになってしまうのは、これまで何年も見続けてきた現実がそうさせてしまっていて、過ぎ去った過去でさえも、ずっと創造的回避をさせ続けるのです。

 決して、モチベーションが下がってしまった彼らが悪いわけではないのです。会社は理想を掲げ、従業員たちはみんな現実を見続けることになるため、その間に生じているギャップが肥大化するほど、創造的回避は加速するのです。思考というのは、基本的には人が生きていく中で見聞きした事、所謂「自分にとっての事実や真実」に大きく影響されるものであり、人格も価値観も信念も何もかもがそれによって形成されていくものだとボクは考えています。

 自分が誰かにとってのドリームキラーになってしまうと、相手もドリームキラーにしてしまう可能性が高まると思います。未来を決めつけるように、「失敗すると思うよ?」「キミには無理だと思うよ?」「キミの言うことなんか誰も賛成しないよ?」などと言う癖のある人間は、完全にドリームキラーだと思って間違いはありません。まだ何も始めてもいないのに、まだ何もしていないのに、そうやって「どうせやっても無意味だよ」と相手に言う癖のある人は、相手が失敗した時には当然のように「それ見たことか」「だから言ったじゃん」などと言うのです。

 それとですね、こうした「相手に創造的回避をさせるように仕向ける言葉」として、他にもこういうものがあります。「オレのほうができるよ?」「お前不器用だなー」「そんなこともできないの?」「それくらいのこと自分の頭で考えたら?」というものもありますし、よく聞くこの言葉も該当します。「違うよ?」。全部根拠があるわけでもないし、やって見せたわけでもないのに、「キミよりも自分のほうが優れているんだよ?」ということを口先だけでアピールする人間は完全なドリームキラーであり、相手に創造的回避をさせ、自分が相手よりも劣っているのだと思い込ませようとするのです。

 ボクはね、派遣社員として働いているけれども、派遣という肩書だけで見下す社員をたくさん見てきましたが、そういう社員から見下されているのはわかっていても、相手が言うほどの差がない、もしくは相手が下に見えてしまうこともしばしばありました。だから全然腹が立たないっていう、妙な体験をするんですよね。いやいや、いいんですよ、相手が見下したいんだから好きにさせてやればいいんです。在りもしない噂を流して仲間内で「アイツがどうのこうの」と言っているわけですが、これぞまさに「創造的回避」から来る愚考なのだと、ようやく理解することができました。

 先週だったかな、「髪切ったほうがいいよ?」と言われたんですけどね、年下男性社員に。彼は何を以ってこう言ったかを、ボクなりに考えてみたんですけど、一つは「見たまんま言った」、もう一つは「周りの人たちが言っていたことに便乗して言った」、このどちらかだと思うんですよね。そして、前者は「善意のドリームキラー」に類するもので、後者は「悪意のドリームキラー」に類するもの、としたわけです。暑い季節ですから、「髪切ってサッパリしなよ」という意味の善意のドリームキラー、周りの人たちと話していて「アイツ、ロン毛キモくね?」という意味の悪意のドリームキラー。

 人の容姿に意識が向かうのは不思議なことではありません。でも、完全に個人的な感覚で「髪切ったほうがいいよ?」と言ってしまうと、どちらの意味に捉えたとしても、どちらもドリームキラーの発言なんですよね(笑)その男性社員は、キャシャなボクと違ってやや肥満体形です。体形なんて人それぞれですからね、いちいち口に出して言うことでもないとボクも思います。ですが、そうやって言われた時に一瞬だけ脳裏を過ぎりました。もちろん、善意のドリームキラーの言葉として「痩せたほうがいいよ?」という言葉がね。でも、わざわざ言わなくても本人がわかってることですからね、敢えて傷口に塩を塗り込むようなマネをすることに、ボクは興味がありません。

 結局のところ、創造的回避思考をするもしないも自分であって、周りの人間たちがどう言おうがどう思おうが関係がないのだということです。自分が何をどう信じるか、自分自身で突き詰めていくべきものであって、誰かが言ったことが正解だと思い込むのは、自分に対して失礼でもあると思うわけです。自分には意思がないんだよと、自分で認めてしまうようなものですからね。

 まず、自分を信じるということが最も大事だということを、如何に胸に刻んで人と接するか、これに尽きると思います。

 自分を信じろ。

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