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❋人は住む環境でどうにでも変化するとされていたのは1995年までの話❋

 インターネットが存在しなかった時代は、人が受ける影響は家庭、学校、会社などでの人間関係とテレビ・ラジオくらいだったが、インターネットが社会に普及してからというもの、誰もが端末を手にする現代社会においては、日々、無意識のうちにネット上を縦横無尽に飛び交うあらゆる膨大な情報の影響を受け続ける生活が当たり前になった。

 オンラインゲーム、ゲームアプリでよく言われるソシャゲなるものは、SNS機能を付帯したものが今では当たり前となり、簡単に人と人との交流を可能にした。

 どんな物事にも利点と欠点、メリットとデメリットが同時に潜在している。自動車、原子力発電所、医療、薬品、嗜好品などのように、この世界に100%害悪となるものは、実のところ数える程度しかない。

 一番は、どんな物もどんな仕組みもどんなチカラも、「扱う者次第」で様々に異なる結果を生むということ。

 極端な話、とある人物に包丁を持たせたらとても美味しい料理を作るかもしれないし、はたまた別の人物に同じく包丁を渡したら憎んでいる人を刺し殺すかもしれない。

 安全に運転すれば快適な移動手段である自動車も、運転する人によって生じる結果が異なる場合が多々ある。法が定める道路交通法に則って青信号で横断歩道を渡っている純粋無垢な子供たちの列に突っ込む事故が起こったり、イライラしたからといって前方や後方を走る車を煽ってみたり、あとは確信犯的に自動車を犯罪利用したり。

 辞書に書かれている意味を考慮せず「法律とは何か」と問われれば、事後処理用の量刑判断基準に過ぎない。これはこれとして社会的な仕組みとしては多大な貢献をしていると言えるものの、刑事事件の多くはやられ損である。どんなに加害者である被告人に重い罰が課されようとも、失われた命は戻らないし、被害者遺族を精神的に傷付けたという事実は生涯ずっと記憶として残り、完全にリセットされる手段があるわけではない。

 自分が普段扱っている物を、本当に適切に扱えているのかどうかを問われると、基本的には疑問しかない。

 歯磨き用の歯ブラシ、ちゃんと磨けている人はどれくらいいるんだろうか。虫歯予防のために歯医者に行く習慣は本当に正しいのかというと、これもまた疑問である。日本の歯医者は歯を削り過ぎという話は珍しくない。

 こんな話を聞いたことがある。とある人物の友人が接骨院を開業したものの、施術技術が優秀過ぎて患者が通院する回数は平均で2回程度でどんどん患者が減ってしまい、自ら閉業に追い込んでしまったというもの。どんなにその優秀さが口コミで広がったとしても、たった1度や2度の施術を受けるだけで完治してしまうとなれば、閉業も時間の問題だというのは理に適った話だとわかる。

 だから、世の中の多くの大小様々な規模の病院は、一人一人の患者に一回でも多く通院してもらうために、アレコレと理由を付けて次回診察日時の予約をさせている。高齢者が病院に通う習慣というのは、一概に悪いこととは言えないものの、社会保険料が年々上がっていく日本社会においては逆行した習慣だろうと言える。

 おまけに、病院やクリニックに併設されている処方箋調剤薬局、大手スーパードラッグ、こうしたものも全国に蔓延しているのは、患者が病院に通う習慣があるからこそ成り立っていると言える。だいぶ行き過ぎた社会構造だということは街中を歩いていればすぐにわかる。中には、3軒4軒と薬局が集中的に濫立しているような光景も見られる。

 別の視方をすれば、薬局同士で患者の取り合いをしているような構図。これのどこがまともな社会福祉構造なのかは甚だ疑問でしかない。結局、患者のための薬局とは言え、民間企業であり、営利組織。患者が減れば当然立ち行かなくなる。

 人々が病気にかかることがなくなる社会、人々が病気にかかってもすぐに完治できる社会というのは、実のところ国家としても望んでいるわけではないように見える。というよりは、いろんな症状や病をサンプルとして捉え、それらを比検体と位置付け、様々な薬品の効能を実験する必要がある、などといった大義名分がまかり通っていると言える。

 病院経営も結局はビジネス。反対に、患者のいない病院がやっていけるような構造もおかしいと言える。

 人口減少が著しい日本は、あらゆる分野において人手不足が深刻化し、規模の縮小を余儀なくされていく。となれば、患者も減り、犯罪も減り、交通事故も減り、良いこと尽くしではないかと思えなくもないが、それらは同時に減っては困る人たちもいる。

 日本という国が、犯罪が一切起こらない国になれたとすると、警察事情はドラマや映画のようには行かず、やることがなくて交番でボケーっとしているお巡りさんを量産することとなり、最終的には人員削減へ移行することになるだろう。

 では、自動運転社会はどうか。タクシーの自動運転が普及したとして、一体誰が得をするのか。一番損をするのは誰なのか。そういうことを考えると、本来企業には雇用という社会貢献ができる組織でありながら、自動化が進むことによってこれまでのような雇用体制が維持できなくなるケースも出てくることになる。

 今働いている人たちのうち、これからもずっと必要とされる重要な仕事をしている人たちと、別に人がやらなくてもいい程度の仕事をしている人たちとの厳密な比率ってどんなもんなんだろうか。

 自動化社会というのは、今を生きる人々に対して規模の様々な「ジレンマ」を突き付け続けるものになるかもしれないと考えると、社畜になることへの抵抗感は否めない。「別にこれ自分じゃなくてもいいじゃん」って思えるような作業をやらされることを、「仕事なんだからやれ」「今までみんなやってきたんだからお前もやれ」という屁理屈で片づけられることには抵抗しかない。こういう職場は決まって無能の肥溜めのように見える。

 生産性のないこと、効率を下げるようなことを変えたり排除したりしないような怠惰な組織というのは、そこで働く人たちの働き方も怠惰なものにしてしまう。そんな会社はこれから真っ先に倒産へ追い込まれていくに違いない。

 イヤでも上司に対する愚痴を言いたくなるような職場はさっさと辞めるに限る。そこで何年働いても、大して得るものがあるわけでもなく、ただ残酷に時間だけが過ぎていく。その時々で自分できっちり判断して行動出来れば何の問題もないけれども、判断ができない、行動もできない、そういう人は名実ともに社畜人生で終わる。

 自分が扱う物もそうだけれども、会社や上司が扱う制度や仕組み、常識や屁理屈などといったことも、常日頃から疑問視できるようでなければならない。社畜上司の部下は同じく社畜と化す。それが会社組織というものだというのなら、そう信じるものだけがそこに残ればいいだけのこと。給料をもらうその代償が社畜のような仕事人生ならば、死んだほうがマシ。

 その上で職場での人間関係に悩んでいるとかパワハラセクハラを受けているとかであればもっと価値がない。

 人は、どうしても自分が属す環境の影響からは逃れられない。少なからず誰でも影響を受ける。その結果、感覚が麻痺したり、ルールだから規則だからということを自分で強引に納得させてしがみ付いたりするようであるならば、その人はそういう人生を過ごすことに抵抗はないのかもしれない。ただ、ガマンするくらいなら他の環境を探して選択したほうがいい。

 ガマンしているという自覚がありながら、ガマンと引き換えに自分が何を得ているのか、それは本当に自分にとって価値のあるものなのか、そういうことを具体的に考えられなければ、後になって必ず後悔することになるものの、その後悔は自ら招いたものでしかない。

 自分がどんな環境で過ごすかは、自分でその都度決めればいい。他人に言われて過ごす環境というのは、自身の意思が伴わない選択であるだけに、何か不都合が生じたりすると自分にその環境を進めてきた人物を責めたくなる。いくら責めてもその人には責任はないのだから、それすら意味も価値もないことになる。環境というのは、そういう残念な選択手段で決めていいものではない。

 これまでシンプルだった「選択」が通用しなくなってきて、より一層複雑化しているのが今の時代。もはや精神論やお金で済むような状況ではないんだよね。

 ただ、そんなに選択が複雑化したとしても、身の周りの、普段自分が扱うものくらいは、適正さを欠くことのない扱い方を維持したいものである。

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