無題

教わったことが全てではない。

 ボクはね、一番最初に就職した会社の社長から言われたことがある。人生で2番目に刺さった言葉だった。

無題

 たぶん、直接、自分が勤めている会社の社長からこの言葉を言われたことのある人は人類史上一人もいないのではないだろうか。これを言われ、瞬時に、「そうだったのか・・・」と人生で初めて「勉強することの意味」に気付かされた。年齢は23歳。季節は梅雨の時期。

 腹が立つどころか、素直に認めざるを得なかったんだ。事実、勉強してこなかったから。小中高と12年間、何も考えず、宿題もろくにせず、ただ過ぎ去った。特に、高校三年間は、せっかく進学校へ入学したのに、入学できたことに満足してしまって、全く勉強をせず、赤点続きだったために、始めた硬式テニス部も2カ月で辞め、三年寝太郎を実行した。

 ある日の現代文の授業で、タオルを机に敷いて、その上に突っ伏して爆睡していたら、やーさんばりにイカツい先生に強烈なゲンコツを食らって飛び起きたことがある。恥ずかしさを凌駕するほどの激痛に悶えた記憶は今も忘れない(笑)

 何のために算数・数学・国語・英語・理科・生物・化学・物理・社会・日本史・世界史・倫理・・・などといった科目の授業があったのか。その意味がわからないまま、毎日や夏休みや冬休みにタンマリと宿題を課せられたのか、挙句の果てにはテストや全国模試とかってことまで課せられて、もうその現実に対しては拒絶反応しかなかった。

 極論、座学は面白くない。当時のボクはそう思っていた。座りっぱなしで、先生の話を聞き続けなければいけないことに苦痛を感じていた。中学の数学教師の授業だけは面白かったのを覚えている。おかげで図形の問題は完璧にできていた。なんでかって、黒板に、右手に握ったチョークで円を描く久保田先生のチョークコントロールが凄すぎたから。中心から半径、タテヨコナナメ、ほとんどズレがない、もう、これは円だと言わざるを得ないくらいキレイな円。一瞬で円を描く先生のチョークコントロールがあまりに凄くて面白いと思っていただけなんだけどね。

 その時だけだった。「なんであんなにキレイに描けるの?」って。休み時間に黒板に円を描く練習をしたほど。でも、わからない。いくら描いてもキレイに円を描けない。描けるようになりたくて初めて先生に質問をしに行った。0.5秒でキレイな円を描く先生の技は、黒板用のデカいコンパスで描くのと変わらないくらい凄い。描けなくて悔しいと思った。

 「学ぶ」とか「学習」とかって、意味はわかるけれども、本質的にどういうことなのかはわからないまま、多くの人たちが高校とか大学に進学して社会に出ている気がする。今や、有名難関大学を卒業しても就職が保証されているわけではなくなっていて、東大ニートなんていう人たちまでいるほどだ。

 「失敗しない方法を学ぶ」ということと、「失敗から学ぶ方法を学ぶ」ということとでは、意味が全く違う。前者は「脆い成功法」であって、後者は「真の成功法」だとボクは定義する。もっと言うと、【トライ&エラーのサイクル】を繰り返すことで、人は挑戦した結果、自分の失敗から真に学び得るし、次のトライで修正をかけることができる。

 学生時代は、テストの点数を稼ぐための暗記が7~8割。これは、算数や数学にも共通していること。掛け算九九ってあるよね。これ、歌みたいにして覚えなかった??ボクは完全に歌みたいにして覚えたんだけれども、これが小学校3年生。そして、4年生になると「割り算」が出て来る。ここでもうチンプンカンプン(笑)5年生とか6年生になると分数が出て来る。もう意味不明。数学になると公式とか証明とか関数とか因数分解とか出て来る。やめてくれーっ!!て思ってた(笑)

 古文・漢文も大っ嫌いだった。一部、好きな言葉もあったけれども、当時は何が好きでこんな古い学問を勉強しなきゃならないんだと疑問だらけだった。

 「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」(平家物語)

 今ではこの言葉が好きだと思う。

「祇園精舎の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。」

 世の中に絶対はないのである、ということを真に言語化したものだと言える。良い時があれば、悪い時もある。それは、世の中が絶えず変化しているのだから当たり前のことだ。一時の栄光に陶酔してはならない。いずれは儚く滅ぶのだから、全く以って人間とは滑稽な生き物である・・・というふうに言い換えることもできる。今でこそね。解釈の違いは多少あるけれども、勉強の仕方を勉強するとは、つまり、「応用を利かせることができるようになるための勉強」だということ。

 真実、本質、前提、こうしたものを自ら見抜くための方法は、学校では教わらないよね。多くの人たちが、目的なく、なんとなく何かをしている時間が人生時間の25%を占めているとする。人生80年とすると、20年もの時間を何も考えずに過ごしていることになる。さらに25%を睡眠に充て、残り50%は日々のルーティン行動を目的として生きるとする。ルーティンだから、トイレ、食事、風呂、などといったことは、あまり考えることなく自然に行動しているわけであって、いちいち考えてやることではない。

 トイレに行きたいから行く、お腹が空いたから食事を摂る、風呂に入らないと清潔感が低下するから風呂に入る、そういうルーティンには応用は大して必要ない。強いて言うならば、食事は自炊するのであれば非常にクリエイティブな行動だと言えるため、外食やコンビニやスーパーの総菜は除外。

 とはいえ、人は毎日生活する上で、実に多くの選択思考を働かせている。どこに行こうか、何を買おうか、何を使おうか、誰と会おうか、誰と何を話そうか、何を観ようか、といったことは全て選択思考。これには応用を付加することで選択行動も千差万別であるため、一概に何も考えていない時間というのはほとんどないようにも思われる。

 でも、毎日代わり映えの無い一日を過ごし続けると、人は、ルーティン以上の何かを考えることをしなくなる。脳とは実に素直なのだ。学ぶ意識と好奇心さえあれば、学び方にも様々に方法が別れる。何が自分にとって有効な学び方なのかも当然違ってくるし、学び得たことをどんなふうに応用を利かせるかも違ってくる。

 工夫という言葉に正解はない。工夫をするということは、トライ&エラーのことだから、失敗したことから気付きを得て、次のトライでは修正をしてまた別のエラーに着地する。目的を達する時というのは、少なからず何回かのトライ&エラーの結果達成するわけだ。だから、失敗をした人間を笑うのは違う。むしろ、トライしたことをまず認めてやるべきだろう。

 七転八倒、その繰り返しでしか人は成長しない。でも、失敗から学ぶ意識がない人は、何度も同じ失敗を繰り返す。気付くまでずっと同じ失敗を繰り返す。このサイクルから抜け出すには、自身の失敗と真っ直ぐ向き合うことでしか気付き得ることはできない。実のところ、人が壁にブチ当たる時に、その場に伏してしまうようでは壁を突破することができず、引き返すしかない。

 壁をブッ壊すことを前提に考えている人は、その場に伏すことなど元から選択肢に入っていないし、どうやってブッ壊すかしか考えてなくて、いくつかの方法を試し続ける。失敗して、失敗して、なぜ失敗したかを毎度見つめ直す。何度か失敗しているうちに、トライの精度がぐんぐん上昇して、気が付くと壁をブッ壊すくらいのパワーと知性を宿している。

 人間の感性というのにも人によって差はあるけれども、一つ言いたいのは、「教わったことが、自分にとって全て正しいわけではない」ということ。ルールや規則も、全て正しいわけではないように、教わることも全て正しいわけではないのだ。感性を働かせ、イイトコ取り思考を回転させ続けることのできる人たちは、常に疑うことの大切さを忘れない。

 暗記が必要ないとは言わないけれども、インプットしてもアウトプットしないのなら、それは知識とは言わない。ただの「知」止まり。ハサミも用途がわかっていないのなら、ハサミで釘を打ったり、ハサミを投げたりすることになる。イメージすると実に滑稽。人間には知性があるのだから、「これはどうやって使うのだろう」と考えることができる。

 道具もそうだけど、アプリケーションツールも、言葉ツールも、非言語ツールも、そして、コミュニケーションツールも、何のためにどう使うのがいいのかといった目的と工夫がリンクしなければ最適な使い方ができない。

 人から教わったことは、イイトコ取りをすればいい。あくまでも参考。学生時代にタンマリと与えられる教科書も、所謂、参考書と呼ばれているわけで、よくよく考えてみれば、「これをどう活かすもあなた次第ですよ、勉強頑張ってくださいね?」という大前提があることに気付かされる。

 そしてこれは、学生時代だけではなく、社会人経験においても共通して言えること。生涯勉強と言われる所以はここにある。どうせ勉強するのであれば、目的をハッキリとさせておくほうがいい。そうでなければ、必要な情報をどうやって集めるかといったことも定まらない。

 資格を取得しても活かし切れていない、もしくは、活かす機会がない、はたまたもう活かす必要がなくなったなんてことも今後はもっと起きて来る。人工知能はそれほどに人がこれまでやってきたことを代替する。

 これからの時代、工夫やクリエイティビティはもちろん、もっとも要求されるのは、【感性】だ。目の前の状況、周りの景色、人の動き、人の言葉、日々流れ込んでくるあらゆる情報に対して、どのように捉えることができるのかということを、感性によって識別することができたなら、周りの人たちと同じような考え方や行動を選択することがどんなに意味のないことかがよくわかる。

 トライ&エラーをグルグルと繰り返してみてほしい。そこには多くの気付きや発見が溢れ返っているのだと知ることになる。得た知識を全て、脳内で化学反応を起こすための実験に使うということを、トライ&エラーで実証するのだ。今できないことも、これを繰り返すだけで出来るようになる、そういう確信を持っても間違いではないと思う。

 ただ、最近投稿した「頑張るって何?」の内容の通り、頑張り方を間違えると、目的は達せられない。大事なのは、感性だよ。できないことは悪いことではない。できるようになるためのトライ&エラーをしないことが、自分にとっての最大の悪。これが、生きるということの前提認識だと言っても過言ではないのかもしれないね。

 わかるよ、生きるだけで本当に大変な世の中だ。でも、それを嘆いていたって何も変えることはできないし、何も生み出すこともできない。トライ&エラー、トライ&エラー、トライ&エラー、トライ&エラー、トライ&エラー、トライ&エラー、トライ&エラー、トライ&エラー、、、サクセスっ!!

 諦めさえしなければ、必ず結果は付いてくる。そのために、トライ&エラーの回転スピードを上げていけ!!テストの点数稼ぎみたいなことを目的にするんじゃなくて、限られた時間でトライ&エラーを何回繰り返すかのほうがずっと大事。

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