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【#孤高の書】其の八:幸福の真理

 他人にとっては全く以って無意味なことでも、自分にとってはとても興味深く、価値があり、そしていくら時間を投じても飽きることのない、実際に無駄とも言えるようなことにハマることがある。

 ひょっとすると、毎回のようにヘッダー画像を描き、アップロードして、タイトルを決め、文章を書いていることも、ボクのことを知る他者から見れば無駄なことだと映っているかもしれない。

 でも、ボクにとっては超∞大事なこと。無駄かもしれないけれども、何も生み出すことはないのかもしれないけれども、誰の心にも刺さることはないのかもしれないけれども、それでも心がそういう習慣を欲している。自分の意思で書いていた当初とは違い、今はもう本能に近いレベルで欲している。

 時に、どうしてこの世界に「創造神」やら「破壊神」やらの偶像崇拝思想が存在したと思う?創る神あらば壊す神あり、どこぞの人間がそのようなことを言い始めたのだろうが、よくよく考えてみると、これは万物創世以来ずっと繰り返されてきたことであって、人類が誕生して古代から現代に至るまでの歴史においては嘘か真か不確かなことも含めて語り継がれてきた。

 ここで質問なんだが、ガラス製の皿やコップを床に落として割ったことはあるか?モノを投げつけて窓ガラスを割ったことはあるか?

 昔、小さい頃に兄弟でキャッチボールをしていた時のこと、ふと湧いた好奇心から、ボクは兄貴に風呂場の窓ガラスに軽くボールを当ててみてと言い、弟にそう言われて兄がボールを窓ガラスに投げた結果、案の定激しい音と共にバリバリに砕け散った。

 当然、兄は「こいつが!」とボクのせいにした。いや、そんなことよりも、ボクの眼にはガラスが割れる瞬間のあの光景が普段は見られない新鮮な景色に映った。ボクのせいだとかなんとかもはやどうでもいいほどに、新しい刺激だった。

 大学時代に持っていたモニターとキーボード一体型のデスクトップパソコン、ソニーVAIO。買って一カ月もしないうちにジュースをキーボードにゴボゴボとこぼしてしまい、完全に起動不能にしたことがあった。その時の絶望感もまた新しい刺激だったのを今でも覚えている。言葉になっていない声を出し、薄気味悪い笑いさえ浮かべていた気がする。

 その時初めて、やってしまった時の自分が気持ち悪いことに気付かされた(笑)

 「物が壊れる」時も、「これまでの生活が壊れる」時も、その瞬間から「時の流れ」がガコンッ!!と全く別の方向に切り替わる。一言に、そうした「変化」が起こる。

 ドミノ倒しを実際にやったことのある人も、テレビや動画で観たことのある人も、長い時間をかけて並べた様々なカラーのドミノが、並べた時にかかった時間のおよそ100分の1・・・いや1000分の1ほどの僅かな時間で倒れていく様子を誰もが目で追ってしまうに違いない。

 並べている途中に何度もミスで倒してしまう時には絶望や失望をするのに、完成した状態で倒れていくドミノを見る時には爽快に感じるし、どこか達成感のようなものも感じられる。

 一体その感覚はこの世に生を受けてから、いつ初めて経験するのだろうか。

 よく思い返してみてもらいたい。赤ちゃんがぬいぐるみを放り投げたり、積み木を崩したりした時に、キャッキャキャッキャと笑うことがあるだろう?なぜ笑うのだろう。ぬいぐるみが飛んでいく様子や積み木が崩れる様子のどこが面白いのだろう。

 少なくとも一度はそうした疑問を抱いたことがあるのではないだろうか。特別面白い光景ではないことくらい物心付いた頃には気付いている。

 どうやら、人間のDNAには崩壊そのものが快感に思えたり刺激を感じたりするプログラムが組み込まれているらしいことが推察できる。

 不謹慎かもしれないが、2001年9月11日に起きた貿易センタービル同時多発テロが起きた時のあの映像に対して、その崩壊の仕方、「高層ビルが垂直に崩れていく様子」に興味をそそられた人間は少なくなかったに違いない。

 人が幸せに生きることを願い望むのは、万人に訪れる死があり、その瞬間までには、幾度とない苦難があり、喜びがあり、悲しみがあり、愛があり、憎しみがあるからにほかならない。

 創る神あらば、壊す神あり。人様の命を救い与える者あらば、人様の命を奪い人生を破壊する者あり。

 つまり、それ自体が「幸福の真理」なのだということを理解したい。

 決して「人生には不幸な出来事が必要不可欠だ」などと言うつもりはないが、思いもよらない不幸や悲しみや苦痛があるからこそ、人が自身で幸せだと感じられることが何かが、多くを体験することで「何が自分にとっての幸せか」に気付かされるのだとボクは思う。

 それ故に、よくぞ言ったと思わされるこの諺は、勉強嫌いだった高校3年間で学んだことのうち、今でも覚えている数少ない諺の一つ。

【人間万事、塞翁が馬。】

 何か良いことが起きたとしても、決してそれが良いことだとは限らず、禍をもたらすことになる場合もあれば、何か悪いことが起きたとしても、決してそれが悪いことだとは限らず、幸福をもたらすことになる場合もあることの意。

 これに加えて言うとすれば、「どう生きても人生」ということだろうか。善悪、幸不幸、真偽、相反する二つの言葉の意味は、状況に応じて双方からの視点で捉えるからこそ適切な判断や適切な対処方が見つけられるのであって、偏った視点でしか捉えることができなければ、状況はいつも悪化へと向かいやすい。

 いつまでも若くはいられない人間が最も恐れるべきは死ではなく老化であろうとボクは思っている。自分が年を重ね朽ちていく様子もまた崩壊に等しいわけだけれども、そこにもきっと何かしらの快感や刺激があるはずだと思うことができれば、死ぬときまでずっと楽しめるかもしれないとさえ思う。

 たった一度の人生、どう生きても人生、他人の価値観や社会の歪んだ常識で生きるのではなく、こうと思った道を選択して生きるほうが断然面白いではないか(・∀・)壊れていく様子さえも楽しめるようであれば、恐怖に慄き、慌てて間違った選択をすることもないのかもしれない。

【次回予告】其の九:人間観察

お楽しみに!(・∀・)ノ


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