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◆他者の苦しみや悲しみを憂いて、その心を想う人のことを「優しい人」という意味らしい

 「共感」という言葉の意味に近いかもしれない「優しい」という言葉。意味としては理解できる。ただ、これは人によって捉え方が違ったり、態度や行動に示す時にも違いがあったりするものでもある。

 「人に優しく、思いやりをもって接しましょう」という言葉を聞くことがあるけれども、これには個人的に疑問がある。私が抱くこの疑問は、「謝罪」や「感謝」にも共通して抱くものでもある。

 「人様に迷惑をかけたりケガをさせたりしたら謝りなさい」とか「人に何かを戴いたり、何かをしてもらったりしたら感謝しなさい」という言葉は、教育や躾の意味でよく言われてきたことだと思うが、これを常識だと信じる人は多いかもしれない。

 このように敢えて言語化してしまうことの意義とは何か、ということを考えると、どれも逆効果なのではないか、と。

 人に優しくしたい、謝りたい、ありがとうと言いたい、といったように、本来は「自分の心の内から出るもの」で、「本人がそう思うこと」が起点とならなければ本意ではないと思う。

 それに関連して言えば、人との挨拶だってそう。本人が挨拶をすることを大切にしているから挨拶をする、本人が挨拶をすることは当たり前のことだと思っているから挨拶をする、挨拶をしたいから挨拶をする、といった具体に、いつもそこには自分の意思が反映されているはずで、いちいち誰かに言われてやるものではない

 常識ベースの振る舞いは、人間関係を良好に保つためには必要なことなのだろう。そのことへの理解がある上で、共感しないことに対する批判をしたり、本人は悪いと思っていないのに相手に対して頻りに謝れと言ってみたり、〇〇してやったんだから感謝しろと言ってみたりする人がやたらと多いのは、おそらく、自分もそれらが常識だと信じてこれまでそのように振る舞ってきたからそう言いたくなるのかもしれないが、半ば強要のように相手に対して謝罪や感謝、または、優しくしましょう、思いやりをもって接しましょう、挨拶をしましょうと言葉にする言動は、本人の意思を無視したものではなかろうか。

 悪いと思っていないのに謝罪したり、ありがたいと思っていないのに感謝して見せたりする行為に、一体何の意味があるのかを推察するに、「それで相手が満足すればそれでいい」くらいのものでしかないのではなかろうか。

 では、相手との関係性を踏まえた上で考えてみるとどうだろう。(今後も良好な関係を維持したいと思うのなら)自分が悪くなくても謝罪すべきだ、ありがたいと思っていなくても感謝して見せるべきだ、とすると、これには納得する人たちは多いかもしれない。

 でも、ウソの謝罪やウソの感謝までして保ちたい関係性とは何なのかというと、現実的に言えばその人との関係性を維持することが最大の目的なのではなく、それまでの自分の居場所だったり権利だったりを守るため、という意味合いのほうが強いから、演じてでも謝罪したり感謝して見せたりするのだろうけれども、一般的にはそれが普通だと言われている。なんで?

 そうまでして守りたいものが他にあれば話は別かもしれない。例えば、仕事上、謝罪や感謝を事務的にやっている人たちは少なくはないだろうけれども、職を失わないように、収入を失わないように、事を穏便に済ませるためというよりは、「大切な家族のため」だったりするだろう。

 私が疑問に思うのは、大して守るものもない人たちまでがこれに倣っているという点。

 演じ続けた人間たちが実際にどんな顛末に至っているのか、これは日々のニュースを見ていれば散見されるものでもある。警察官だったり、県議・区議・市議だったり、医者だったり、介護福祉士だったり、弁護士だったり、学校の教師だったり、公職関連で働いている人たちによるあらゆる犯罪行為が報道され続けている。

 インタビューでよく聞くでしょ。「普段からすごく感じの良い方でした」「仕事は真面目にやる方で信頼もしてたんですけどねー」「いつも明るくてご近所づきあいも問題なかったと思いますけど」なんて言われてる人たちがそんなことになっている。

 立場を盾にした物言いは、言うほうも言われるほうも多くの人たちがよく使う言い回しだったりする。公職者全般で言えば「税金でメシを食ってるくせに」と言ってみたり、年齢で言えば「年上のくせに、年下のくせに」と言ってみたり、学歴で言えば「高学歴のくせに、中卒のくせに」と言ってみたり…。

 これらはどれも、立場云々とは何一つ関係もない言い回しで批判しているだけだったりして、大して中身がない。もちろん、立場によって義務や責任は様々にあるけれども、誰もが立場に見合う責任や義務を果たせるものではないし、間違いも冒す。

 人はどこか、他者に対する評価を過度に美化したり、過度に酷評したりする傾向にあり、総じて、人間というものは「こうあるべきだ」という考え方で括りたがるのかもしれない。どう思うかは自由ではあるにせよ、それを他者に対して言葉にするのは、言われる側の人の意思を無視した強要ではないのか、と。

 本当に演じ続けることはその人のためになってるのかね。どっかでキャパオーバーして現実逃避したり魔が差したりして悪さしてしまうんじゃないかね。とても罪深い思想だと思うけどね、演じるべき論は。正義一辺倒に演じ続けるなんて人間性を壊すと思うけどね。100%正義に生きられるほど人間はシンプルではない。

 前に言っていたことと違うことを言った場合にも批判されることがあるけれども、人はその時々で気付きを得たり、経験したりすることで、以前とは違う考え方に変わることは往々にしてあることで、ずっと考え方が変わらないことなどほとんどあり得ない。

 共感しない人に対しては無視したり距離を置いたりして排除する、集団組織ではよくある排外行為も、同質観念の強い環境では容易に同調圧力が働きやすく、共感・同調しない人は悪みたいに扱われることは、おそらくどこでも起こり得ることで、それができないなら仲間ではないと見なされる。馴れ合いの闇とでも言えばいいのだろうか。こういうのは気持ち悪いとさえ思う。

 演じ続けることのリスクをちゃんと教育する環境がないから、資格を持つ人たちが道を踏み外すことが後を絶たないのではないのかと思えてならない。

 家族で言えば、親は子の見本であるべきだと親を演じるのかもしれないが、演じ切る覚悟もないのに子を授かる無責任な親も非常に多い。しかも、家庭は様々で、一つ向こうの家庭は全く別次元の教育方針だったりする。

 保護責任者とは何なのか、これは日本国内だけでも様々な捉え方があるだろうし、世界各国、多種多様な文化の影響を受けて家庭内の教育方針が決まっているところもあるだろう。

 そもそも、家庭内で演じる必要があるのか、ということも再考する必要があるのではないか。日本は特に、親だから、子だから、兄だから、姉だから、弟だから、妹だから、というようなことが好きな国なんだろうけれども、私は小さい頃からこういう言い回しが嫌いだった。

 そういうラベリングをせずとも、家庭内において、親兄弟に対して、自分より優れている部分は褒めたらいいし、学び合えばいいだけのことなのに、「(弟のくせに)生意気だ」の一言で片付けられることが多々あった。それだけで済めば良かったが、よく兄から殴られて泣かされることも多かったのもあって、兄を敬う気など毛頭なかった。

 たまたま後から産まれただけで強いられてきた苦痛は、私という人としての尊厳を幾度となく踏みにじられた、そういう思いを抱いたのが私にとっての家族だった。

 なぜ家庭内で親とも兄弟とも対等に接することがタブーなのか、小さい頃から私が抱いていた違和感は、家族というものへの疑念としてずっと心に深く刻まれている。

 今このご時世で、結婚し、子を授かることが非常にハードルの高いものになっていることも相まって、かつて結婚はしたことがあったけれども、離婚して以降、もうそんな気もなく今に至っている。

 たまに考えることはある。もし自分の子供を授かったとしたら、常に本人の意思を聞いて、何でもかんでもいいよいいよと言うのではなく、本人の得意とすること、本人が心からやりたいと思っていることを一緒に探してあげたい、と。間違っても、親の思想で染めるような教育や躾はする気はない。自分と同じような思いをさせてしまうのなら、親になる資格はないとさえ思うし、兄弟ができたとしても、家族の誰もが対等に接することを大事にする。

 昔、小4の算数の宿題で、母親がそばに付いて問題を解いていた時に、問題文の意味がわからずに悩んでいると、言葉にはしていなくても「そんなこともわからないのか」というように笑っている母親を見て、心底勉強が嫌いになったのを覚えている。問題文の内容は濃度が違う二つの食塩水を足した時の塩分濃度は何パーセントか、というもの。

 普段見聞きしないことを文字列だけでイメージできるかできないかは経験値が関係することだろうと思う。今思えば、あの当時、食塩水は理解していたかもしれないが、塩分濃度が何なのかは理解していなかったに違いない。その状態で笑われたら嫌になるでしょ。

 できないことをバカにするように笑い、できることを褒めない家庭で子は育たない。これだけは断言できる。その上で、やりたくもない習い事をずっとやらせてきたことは、未来に何の役にも立たないものにしかならなかった。子の向き不向きを熟慮しない習い事なんて意味がないから、向いてないと思ったら辞めさせて他の事を始めるようにしたほうがいいね。

 勉強ができる子だけが欲しいなら一人で良かったんじゃないのかって何度言いそうになったか。勉強以外のことで熱中できることをさせてもらえなかったのは、今でも残念に思う。何のためにキャッチボールを両投げできるようにしたかって、おじいちゃんからプレゼントで貰ったグローブが右投げ用だったから。左利きの私は、兄とキャッチボールをする時に、いちいち左にはめたグローブを外して投げ返していたのを、右でも投げられるように練習したんだけれども、できるようになって初めてそれが実は誰にでもできることではないと学校で知って、野球をやりたくなったんだけれども、ダメの一点張りだったね。

 小さいうちに物事に自ら望んで熱中する経験は、その子の未来に直結する。「お前は何を考えてるかわかんねーな、変な奴」と父から何度言われたかわからないけれども、お世辞にも素直に言えるような環境ではなかった。厳しさばかりが先行して、心を閉ざしていたのがその証。

 親が子に対して「毎日メシ食わしてやってんだから感謝しろ」って言ったらダメでしょ。そんなふうに言われたら毎度の食事も楽しくなくなる。とても窮屈だった。

 庭の草むしりも、風呂焚きも、稲刈りも、洗濯も、ご飯炊いたりも、やれと言われれば文句言わずにやったけれども、家のことをやるのは子供としての義務らしかった。

 人生を満足に生きたければ、高校卒業するまでがリミット。でもそれは、勉強だけがすべてではない。それまでにどれだけ熱中できることに時間を費やすかで未来は決まる。子の意思を代替するような教育はその子のためにはならず、未来を壊すことになる。

 自分の意思で熱中することで、小さい子供こそ心の燃やし方を覚えるんだ。子に優しくできないのであれば、子など授かるべきではない。その子の一生を不幸にする。

 人は、自分の意思が尊重されたと実感したら嬉しいものでしょう。そしたら、自ら始めたこと、自ら熱中していることならちょっとやそっとつらかろうと頑張れるでしょう。反対に、自分の意思で始めたわけではないこと、自分がやりたいとは思っていないことだと、頑張れないし、長続きはしないでしょう。理屈で物事を語るなら、そのことに真っ先に気付くべきだったんじゃないかな。これは現代の高齢世代全ての人たちに言えることかもしれない。

 昔は文章を書くことも絵を描くこともまったく興味がなかったけど、大人になって、こんなにも長く続くとは思わないくらい、本当は好きなことだったんだと気付かされている。

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