無題

真のPRIDEとは何か

 自分の経験における努力や成功体験、または栄光などといったことに誇りを持つという意味では持つべきもの、それが誇りというものではあるけれども、これ、認識を誤ると失敗するということをわかってないと、軽々しく自分の口から出してしまうため、鼻先で笑われていることも気付くことが無い。

 あくまでもこれはボク自身の認識だけれども、自分もしくは自分の何かを誇りに思うことっていうのは、「胸の内に秘めるもの」であって、口に出して言うものではなく、誇りを口に出すのであれば、例えば自分が最も信頼している人だったり、過去に最も助けてくれたりいろいろ教えてくれたり、年齢に関係なく「尊敬する人物を誇りに思う」という場合に遣う言葉ではないかな、と。

 語彙力がないと、PRIDEという一言だけでも赤っ恥をかくことになる。自分大好き人間のことを悪く言うつもりはないけれども、プライドが許さないとか、プライドを傷つけられたとか、そういうことを言いたがる人間は、ほとんどの確率で他者を愚弄する傾向にある。

 反対に、自分に自信がない、自分にはできない、自分には向いていない、などということを言う人間は、その瞬間はそう思ったとしても、本来諦めるべきではないのに、簡単に諦めてしまう。それ自体、他の誰が悪いわけでもなく、その場の環境が悪いわけでもなく、ただ単に、物事の本質や前提を見抜くことができない自分が招いた思い込みに過ぎない。

 そんなに物事も人も単純じゃないし、本質を見抜けなければ誤解や思い込みや勘違いはしやすい。「コミュニケーション不足」が招く会社の人離れは、本質を無視していたり、何がいけないのかといった原因を無視してしまうために、会社側も辞めていく人間も、互いに心が通じることがない。

 声をかけてみて反応が薄いと感じたり、SNSでコメントを送ってみたりした時に反応がなかったりする場合、自分との距離感が薄いと気付ける人は、ちゃんとその距離感に従って接することができるけれども、それがわかっていない人は、過剰に反応してみたり、過剰に避けたりと、非常にバランスが悪いことがわかる。

 人の本心というのは、探らなければ言葉にすることはない。なかなか心を開かないなーと感じさせる人が普段どんなことを感じていてどんなことを考えているのかということは、コミュニケーション回数を増やすことでしかわからない。

 どうもこう、大して言葉も交わしていないのに「色眼鏡」でしか人を見ることしかできなかったり、目の前の状況がどうのこうのということしかできなかったり、そういう人が多いんだなぁと感じられる。思考が浅いというだけで人とか状況とかに振り回されることになるから、人疲れしたり、余計に不安になったりするんじゃないのかな。

 んでもって言い訳みたいに「誰に相談すればいいかわからない」とか言う。それってさ、そんなこと言ってしまったら、誰も声かけてくれなくなるでしょ。自分で悪いほうへ悪いほうへ状況を悪化させてることになぜ気付かないのかね。それもさ、しょーもないプライドが邪魔してるんじゃないの?捨ててしまえ、そんな大して何も生み出すことのない安いプライドなんか。

 人の集合体で成り立ってる社会でね、恥をかかずにうまいことやっていけるほど単純じゃない。スタートラインにも立っていない人間が何を知ったふうな口を利いてるんだ??と思う反面、若気の至りだなとも思った。恥を知れという言葉は、プライドという言葉の意味を誤認している人間のためにある言葉。うぬぼれも究極のところ、自分だけは納得して、他の誰かだったり環境だったりのせいにしかできない。ボクはこういう人を本当の弱者だと思う。かと思えば、人の話を聞き入れようとしない。そんな人間のためにかけてやる言葉なんかない。

 1カ月頑張れる人間は1年頑張れる。1年頑張れる人間は10年頑張れる。10年頑張れる人間は、一生頑張れる。東進ハイスクールの元塾講師、林修さんの言葉。確かにそうだなと思った。

 気付きが少ない人ほど、言葉の意味を自分の都合の良いように解釈しがち。謙虚さというのは、演じて見せることはできるけれども、本音のところは隠しきれない。表情や歩き方に現れるものなんだよね、人間の心境というのは。だから敢えて聞かずともわかる。それでも早めに対処しないとなと思って話を聞いてみると案の定。

 本当の敗者とは、自分の弱さを見てみぬフリをして向き合うことを避けた人間のこと。自分の弱さを認めることができなければ、中身の無いプライドを盾にするしかなくなるからもっと弱さを露呈することになる。できないから何?できるようになりたいっていう熱意が足りないからってなぜ諦めるの??自分で選んだ道なのにそんな簡単に投げ出すの?

 最低でも半年くらいはやって見せればいいのにって思うけれども、逃げ癖がある人にはそういう前提認識がないために、どうでもいいやと諦めてしまう。おそらく、他の場所へ行ったとしても、きっと同じことを繰り返すに違いない。

 ないよ、そんな、元々自分が満足できるようなラクな環境なんて。RPGもそうでしょ。徐々に強くなって、魔法やアビリティが増えて、武器を手に入れて、仲間が増えて、とかいうことと一緒。確かに、ゲームをどれだけ一生懸命やったところで、自分は何も変わらない。でも、学び得ることは非常に多い。もちろん中身のストーリー性にもよるけれども、学ぶ意識がなければ単なる時間の無駄。浪費でしかない。

 そういうロスの多い生き方をしてきて、何も考えずに今まで生きてきた人ほど、なんとかなるとか言う。何ともならないよ。誰も認めてはくれないよ。努力という言葉が嫌いだとか、石の上にも三年とかいう言葉が嫌いだとか言うことは、やってから言いなさいよ。「ボク自分に甘いんで」とか言われた瞬間、かけてやる言葉がないことに気付かされた。きっとご両親は甘やかせて育てたつもりはないのかもしれないけれども、きっとすごい人なんだろうなと思いながら話していた。

 親が凄すぎると子がグレやすく、親が毒親だと子がしっかりする。そういう社会学的観点は否めない。もちろん、全ての家庭に当てはまることではないけれども、官僚の息子が人様に迷惑かけたり警察に連行されたり、女優として一世を風靡した母親の息子が薬漬けになっていたり、こうしたことはメディアで伝わって来るだけでも往々にして起こっているのだということがわかる。

 かく言うボク自身、あまり人に優しい人間ではないけれども、できることはやろうと考えているため、完全なお人好しではないけれども、いろいろできることをやった結果、相手が応じる気が無い場合には一転して厳しくなる。目には見えない「人の気持ち」は、コミュニケーションを図ることで見えてくることもある。

 自分の弱さを認めて、それでも頑張ろうとしている人のためだったら、可能な限り力は貸したい。そういう人間でありたい。それと同時に、なんでもある程度のことはできるくらいの汎用性を磨いていきたい。自分から〇〇を取ったら何もなくなる、そういうギャンブルみたいな生き方が出来る人ほど、安易にプライドなんていう言葉を口にすることはしない。1つのことで人生を生き抜こうとすることはギャンブルに等しいけれども、それで結果を残せる人はほんの一部しか存在しない。

 多くの人たちは必ずどこかで挫折する。だけど、挫折するまでに挑戦し続けたという事実は、きっと彼らの誇りとなって胸に宿ることになるだろう。せめて本を読んで、文章を書いて、自分のリテラシーがどんなもんかくらいは続けてもらいたいなと思うけれども、長文嫌いって人が多いことはボクにとっては非常に残念。理解力も表現力も乏しかったら努力しなさいよって思うんだけれども、一番重要な言葉の精度を上げることを嫌う人間には相応のレベルに合わせて話すしかない。

 本をよく読む人とのコミュニケーションを増やせば、それだけで多くの学びがある。人によって読んでいる本は違うだろうからね。読めば読むほど自分の思考と融合して自分の言葉として表現できるようになる。話す時にいちいち本を開いて話したりしないでしょ。

 高卒とか大卒とか学歴は関係ないって言われているけれども、どちらにも言えるのは、高卒なのに凄いねって思われたり、大卒なのにその程度って思われたり、周りの人間たちは自由に思いを巡らせて軽々しくそういうことを言ったりするけれども、高卒なら高卒で、学歴というレンズで見られるのが嫌いならそれを凌駕するだけの努力をすればいいし、大卒なら大卒でも、相応に見られたいならそれに足る努力をすればいい。

 訳のわからん言い訳するなってことね。自分の進む道は自分がどんな人間かを知ろうとしない限り、これからも間違いだらけの選択をすることになる。おそらく次も同じ結果に至るだろう。自分に甘かったり安いプライドを捨てきれずにいたりする限りは、ずっと恥をかくことを恐れて逃げ続ける。そうこうしているうちに、同世代に先を越されていく。それでいいならいいのかもしれないけれども、良い年した大人が人を悪く言ったり環境のせいにしたりするな。

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