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君達がそこに這いつくばったままならば、それこそが弱さの証明です。

 スラムダンクの安西先生の名言で有名な「諦めたらそこで試合終了ですよ。」を別の表現に置き換えた言葉ですね。意味は全く同じですね。

 勝負の勝ち負けもそうですが、ボクは、人が何かに挑戦して失敗する時や成功する時に、それを最後の結果としてしまうことも「弱さの証明」だと思うのです。

 次を見据えることさえできれば、その時の失敗は「最後の失敗」とはならず、次回の挑戦へと繋げるための貴重な失敗だと捉えることができます。ただこれは、自分の意思次第で次への挑戦が可能な場合に限ります。

 人生、時には、とある失敗が次への挑戦機会を逸する場合も往々にしてあります。人が最も恐れることの一つに、「機会の喪失」が含まれます。

 極端な話、死んでしまったらそれまで。その1秒先からは何もできなくなりますね。環境もそうですね。今いる環境ならばできることでも、その環境にいられなくなったのなら、やろうと思っていたことは別の場所ではできなくなる場合だって当然あります。

 どこにいても自分がやりたいことややってみたいことに挑戦する機会に恵まれているのだとすれば、それ以上の幸福はないように思いますが、大抵の場合、属している環境におけるルールの中でしか身動きが取れない場合がほとんどではないでしょうか。

 ところが、人が自分の選択した環境に固執してしまうには様々な事情や要因が関係していて、なかなかそう簡単にその環境を捨てて別の環境へ移るということができないのだと思い込んでしまっている人たちは少なくないように思います。

 だから、組織の中にも、メンバーの中にも、異端児的な存在はいなくてはならないのです。これまでにない新しいアイデアを考案したり、誰もやったことがないことに挑戦しようとしたり、前代未聞の挑戦を1stペンギンとして実行できる存在、相当勇気の要ることかもしれませんが、これが出来る人とそうでない人は共存すべきだとボクは思います。

 批判されることをモロともしない、一見バカだと思われそうな存在、いざ自分がそういう立ち位置を演じようとすれば、大抵の人たちはビビるでしょうし、普段から周りに合わせて意思決定を他者に委ねている癖のある人には到底適わない選択ではないでしょうか。

 もちろん、失敗は失敗として受け止めるべきですが、挑戦しない人は成功することも失敗することもないというのは世の常なのに、そのことを見て見ぬフリをして、どこか他人事のように処理してしまう人というのは少なくありません。挑戦した結果失敗に至ったのなら、それは全て良い経験として血肉となることでしょうし、きっとこの先の挑戦に活かされる経験となるはずです。

 自ら命を絶った人たちの気持ちを理解することは誰にもできないかもしれませんが、唯一断言できることがあるとすれば、彼らは自身が弱いということから逃げることしかできなかったということです。

 ただ生きるだけでも大変な世の中ですが、これは誰にでも共通していることであり、生きることの大変さに格差はないと認識するのが正しいと言えるでしょうね。どんなに大きな失敗をしても、どんなに大恥をかいても、生きていれば人生には良い時と悪い時との波があることは間違いありません。

 挑戦するには生きていることが絶対条件ですし、仮にどこかのタイミングで挫折したとしても、時を経てまた立ち上がることだって可能です。なんでもかんでも無理だと吐き捨てて逃げ腰になったり、何かのせいにして諦めることが自分にとっては正しい選択だと、頑として他者の言葉に耳を貸そうとしない人もいますが、そういう人も、それこそどこかのタイミングで気付く時が来るでしょうから、それもまたその人の生き方と捉えることができます。

 人から嫌われたら全ておしまいだと、一体誰が言ったのでしょうね?他者の思考を縛り付けようとする人の言葉には耳を貸す必要はありませんが、耳を貸さないのなら、それ以上に挑戦し、失敗し、少ない成功を積み重ねないといけません。

 だから勉強が大事。学びが必要。自分の頭で考えて事を成そうとするにも、ある程度の学識がないと必然の失敗を繰り返すことになります。失敗した結果、周りの人間たちに批判されたり嫌われたりしても、挑戦することと彼らの批判は関係がありませんから、こういう場合には耳を貸す必要はありません。

 やっぱり、何事に関しても、本質を見抜けないというのは損ですね。見たこと聞いたことが自分にとって毎度真実だ!!なんて、そんなことは絶対にありません。むしろ、目に見えていないこと、自分の知らないことのほうに本質の姿が隠れている場合がほとんどです。

 そうですねー、情報と一言に言っても真実の姿を知るには膨大な情報収集量が必要でしょうし、分析するために費やす時間もまた膨大でしょう。

 でも、人って誰でも、生きていく中で何が大事で何が大事ではないか、ちゃんと肌で感じ取ったり考えたりしてるんですよね。見た目じゃ何もわからない、そう思っておいたほうが良いし、言葉を交わしたとしても、多くの人たちが簡単にウソを言いますから、必ずしも相手の言葉がその人の何かを示すとも限りません。

 褒められたとしても、言葉の綾で取って付けたような印象がすると、素直に喜べなかったりしますが、そこに具体性があればニュアンスも伝わりやすくなります。

 人が自分に対して何かを意図して発する言葉か、それとも何の目的もなく発している言葉か、そんなことはどうでもいいと思える性格は正直うらやましいくらいですが、相手が自分に対して訊いてくる質問を、そのまま受け止められない癖がボクにはあります。相手が何を意図してその質問をしているのか考えているうちに、適当に答えた言葉が的外れだったりします(笑)

 そういう意味では、コミュニケーションに多少なりとも問題はあるのではないかと思いますが、それも相手との距離感によって反応の質も変わってきます。心を閉ざして接する場合と、心を開いて接する場合とでは、発する言葉の質も変わるのではないかと思うのです。それが僕の場合は極端に分かれてしまいます。

 思い返せば、心を許した人というのは家族以外に僅か数人しかいなかったように思いますし、明確に友達だと言える人も一人もいません。それでもいいと思うようになったのは、幾多の失敗を積み重ねてきた結果ですが、特別不自由もなければ寂しいと思うこともありません。人とのご縁というのは成り行きでいいんだと思うに至っているので、友達の数はゼロでもいいと認識しています。

 少なくとも、ネガティブ発言の多い人間、誰かを悪く言う人間には心底興味がありません。聞かされるだけこっちの時間が食われるだけなので。その点、ボクはスーパードライで優しくない性格ですね。普段交流のある人たちよりも、まったくの他人に対して接するほうが優しくなれる気がしますね。それっきりですから。

 うん、一期一会、これが一番気楽ですね(笑)テーマとは全く関係ない話に逸れてしまいましたが、今回のところはこれにて。

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