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研究は終わらないし、検証は何度やったって構わない、人の成長とはそういうものではないのか?

 ある日マイケルは、横長のプランターに花の苗を5つ植えた。2週間後、4つの苗は花を咲かせたが、1つだけ、それから何日経っても花が咲かない。他の4つの苗と同じように肥料を与えたり水を与えたりしているのに、どうしてこれだけ花を咲かせないのかと悩んでいた。

 マイケルは、一向に花を咲かせないその苗を引っこ抜いて庭の隅に捨ててしまった。

 その様子を見ていたマイケルの母親のジュディーが、捨てられた苗をマイケルに内緒で小さめのプランターへ植え替えた。

 翌朝、いつものようにマイケルが花に水を与えている時に、ふと昨日苗を捨てたほうを見ると、確かに昨日捨てたはずの苗が見当たらなかった。

 それから二週間が経った頃、ジュディーが、1つのプランターを手にマイケルのところにやってきた。するとマイケルが、「ママ・・・それ・・・」と言う。

 ジュディーは答えた。「綺麗でしょう?」と。「ママ、その花、なんでそんな色なの?」と訊くと、「マイケル、これはね、この前あなたが捨てたはずのあの苗が花を咲かせたのよ?」と言うと、マイケルは驚いたように、「え?あれママが??」「そうよマイケル、あなたが植えた5つの苗は、全て一斉に咲くわけではないの。中には、【遅咲きの花】もあるのよ?だから、花が咲かないからって苗を捨ててはダメなのよ?」と笑顔で教えたのだった。

 マイケルは不思議そうに「なんで?なんでボクが咲かせた花と色が違うの?」と訊くと、ジュディーはこう答えた。

「あなたが植えた5つの苗のうち、あなたが捨てた苗だけ変わった色の花を咲かせたのは全くの偶然よ。でもね、種類が同じでも、咲く花まで同じとは限らないのよ?世の中のあらゆるものは、希少価値の高いものほど数が少ないの。他と違うものほど珍しいものなの。だから、違うからといって捨てたり排除したりするのはもったいないの。他と違うものほど大切にしてあげてほしいな。」

 その時、マイケルは初めて「違う」ということの本質的な意味を知ることとなった。

 それから数日後に開催された花のオークションに、ジュディーが咲かせた花を出品すると、多くの人たちの目を惹き付け、250万円の値が付けられ、会場をアッと言わせたのだった。

以上、フィクションストーリーでした(笑)

 この世に溢れているものに価値がないわけではないけれども、確実に言えることは、かつて誰も見たことがないもの、かつて誰も触れたことのないもの、かつて誰も創ったことがないもの、などというように、人々にとって初めての何かというのは、ただそれだけで価値を増す。

 「他と異なる」ということを、疎外や排除すべき理由にして処理したがる人はきっとたくさんいる。けれども、他と異なるというだけでそこに何らかの価値を感じられる洞察眼と感性があれば、誰よりも早く、他との違いに気付き、好奇心を高めた状態で研究したり検証したりすることができるようになる。

 「なんかこの人、その辺の人たちと違うなぁ」って感じたら、その人には何かしらの魅力を宿しているかもしれないと、半信半疑でも観察できれば、貴重な機会を得られることもあるかもしれない。

 一方、どこにでもいそうな、周りに染まってばかりの人ほど、普段は魅力になかなか気付きにくい。大抵の人たちが人前では演じているからね。芯の通った、軸がしっかりとしている、他と異なる人物にボクは遭遇したい。

 違うというだけで面白い。違うというだけで魅力的。反対に、誰でも言いそうなことを言い、誰でもやりそうなことをやる人というのは、悪く言うと「ただ楽をしているだけ」なんだろうと思うけれども、楽をしているつもりが、実は自分を殺してストレスを溜め込んでいて、ある時ドッと疲れが噴出するタイプだったりする。

 ストレスとの向き合い方は、自身の意思や自ら考えることからが始まりで、他者がどうであるかが先天的なのではない。

 「アイツがこう言ったからムカつく」とか「アイツがこういうことしたからイライラする」などと、常に他者の言動や行動を事の発端として位置付けて「だから自分はこう思うんだ」という後付け論では、ストレスと共存しているようなものではないかとボクは思う。

 大衆は常に間違っている、これが間違った理論なのだと仮定すると、常に少数派の立ち位置を選択することは間違っていることになるが、現実社会ではそうではないケースは多々ある。

 始めは猛烈に批判されたり罵詈雑言を浴びせられたりすることはあっても、結局のところアンチたちはそれ以降も渦中の人物が今どうなっているのかが気になって攻撃せずにはいられなくなってしまう現象が起こることがあるらしいが、それはもはやファンなのだとキンコン西野氏は言っている。

 イヤよイヤよも好きの内ってね(笑)本当に気に入らなかったり嫌いだったりするのなら、1秒たりとも意識の中には入ってこないはずではないかなということ。つまりだ、嫌われる人は物語の主人公であって、脇役はその主人公に対してブツクサ文句を言っていたり陰口を言っていたりする人たちとその傍らでダンマリ決め込んでいる傍観者たち。

 疎外されたり排除されたりしても、人生が終わるわけではない。自分が選択したい環境で同じ時を過ごすほうが人生上のコスパは飛躍的に良くなる。別に遅咲きでも良くねーか??っていうお話でした。ひょっとするとド偉いチャンスが転がってくるかもしれない。大衆に向かってチャンスが転がってきたとしても全員がこれを享受できるわけではなく、ほんの一部の人間たちだけだ。

 花が咲くまで待てる人間は、研究熱心だったり根気強かったりするため、物事の検証に適性があるのかもしれない。信長タイプは花の咲かない苗はちょん切っちゃうので、その時点で検証終了だーね?(笑)

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