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「カーネル・サンダースの呪い」と「弁当の呪い」に笑った

 1985年、阪神タイガースがセ・リーグ優勝した時、熱狂的な阪神ファンがカーネル・サンダースの像を道頓堀の川に投げ込んだという出来事があったらしいのだが、以降、その因果か、成績が低迷し続けたために「カーネル・サンダースの呪い」と言われているのだとか。

 ロッテマリーンズの応援・記念として弁当を販売すると、どういうわけか選手の怪我・故障や成績不振など、予期せぬ不運に見舞われる因果から「弁当の呪い」と言われているのだとか。

 験担ぎ(げんかつぎ)という言葉があるけれども、これは、過去に何かうまくいったとか成功したとかいうその前に何をしたかを思い返し、「あの時こうしたらうまくいった」と、その時の事前行動を験担ぎとして試合や試験前に必ずやるといった習慣行動のことを言う。〇〇は縁起が良い、などと言う場合も同様の意味を含ませている。

 反対に、「縁起の悪いことを言うなよ」といった悪い出来事を連想させるような言葉には、本当にその通りになってしまうのではないかといった不安を煽るようなニュアンスがあるけれども、信じるも信じないも関係なく、結果は結果であり、験担ぎだろうと縁起だろうと、それらは人が願うことや心配することというだけのこと。

 主演「小栗旬」のドラマ「BORDER」では、事件で死んでしまった人と会話ができるようになったというもの。主役の彼だけは死者と意思疎通ができ、ある時の事件で頭部に銃弾を受け、残った弾丸を摘出することなく、刑事として事件と向き合う。死者とは、加害者だろうと被害者だろうと関係なく、彼のそばに現れ、彼以外の人たちには見えない状態で話す。

 だから、犯人が誰なのかは彼にはすぐにわかるし、どうして事件が起きたのか、その経緯や事件に絡む組織の情報なども簡単に入手することができる。

 小説、映画、ドラマ、そして漫画やアニメでも、非現実的なストーリーが描かれていて、中には、ノンフィクションを題材に描かれるケースもある。どうして殺人事件やテロ関連の題材がこれまで大量に描かれてきたのか、少し不思議に思うところがある。

 時には、それらの作品が影響して起こる事件もある。個人的に、火曜サスペンス劇場が全盛期だった頃、中高生だったボクは異常性を感じていた。人が死んだり、人が殺されたりするような内容のドラマや映画がどうして人気を集めてきたのか。どこかそういうことが起こるように助長しているような印象が強かったのを覚えている。

 漫画・アニメで言うと、これしかない。「名探偵コナン」では、コナン現れるところ殺人事件あり!!というもの。見た目は子供!頭脳は大人!

「高校生名探偵、工藤新一は、ある組織に毒薬を飲まされ、体が縮んで江戸川コナンになっちゃった!小さくたって構わない!頭は17歳の名探偵。大人もドキドキ難事件!今日もスッキリ解決さ!」

 この作品だけで年間推定1000人が死亡しているとかいう話もあるほど。良いふうに捉えると、人はいつ死んでもおかしくないし、社会では殺人事件が起こるのも不思議なことではないし、いつ加害者に、いつ被害者になるかもわからない不確実性の高い環境で人々は生きているのだ!と表現することもできるけれども、人の死に関連する作品をどう表現しても「表現の自由」という権利で守られるのは当然だ!!というのが現代の概念。

 確かに、人の死はドラマ的な解釈がされやすいけれども、現実だけでは飽き足らず、物語を創造してまで欲することには賛同しにくい。ところが、医療関連のドラマは、刑事ドラマとは違って、医療現場とか医療の世界を垣間見ることができる。ドクターXは、主に「利権」絡みの病院経営に重きを置いているから、これはこれで面白いとは思うけれども、個人的に好きなのは「白い巨塔」「振り返ればヤツがいる」「コードブルー」。

 現代社会を象徴するドラマは基本的に好き。だけど、刑事ドラマは疑問。例えば、カッとなって人を殺してしまった時に、冷静にアリバイ工作なんて考えないでしょ。だけど、そういうドラマとか映画とか観過ぎた人は、なんとかアリバイ作って誰かに罪を擦り付けたり、遺棄して逃げたり、アリバイ工作に関する知識が身に付いてしまうために、警察の捜査をかく乱することに繋がってるような気がするんだよね。

 知らなくていいじゃん、本当は。罪を犯したなら自主すべきなのに、逃げるから罪が重くなるじゃん。下手な計画を立てても、計画犯だとバレたらその分さらに罪が上積みされる。

 犯罪数は減ってきていても、巧妙化してきたのはなぜなんだろうね。詐欺だって昔とは全く違って、心理術に長けた詐欺師が受け子の指導なんかしちゃってるもんだから、騙される人が後を絶たない。警察が全国にオレオレ詐欺注意の呼びかけをしているタイミングでは、全く別形態の詐欺手法を考えて実行に移していたりする。犯罪が巧妙化してきたのは、ネットの進化に限らず、その他の知識の増加。

 道具も知識も思想も、悪用しようと思えばいくらだって悪用できる。そういう選択をする者たちが集まれば、中には優秀な頭脳を持った人間も含まれる。警察では太刀打ちできないレベルのテロ事件が起きたら・・・とかいうことを考える人間がいるから、それを題材にドラマなり映画なりで表現したくなるんだろうね。サイバーテロ関連の映画は、実際にそういう事件が起こるように誘発したいんじゃないのかな?って思ってしまう。

 すべての作品は、呪(のろ)いだったり、呪(まじな)いだったり、そういう要素が必ず含まれていると思う。あらゆる事件の中には、必ず「模倣犯」がいる。過去に起きた事件をマネする模倣犯。模倣犯は、架空の物語の中で描かれた事件も模倣する。

 人は生きていれば、何かから影響を受けながら生きるわけで、その路の先に善の自分か悪の自分かの岐路なんて存在することがなく、いつ人が悪に染まってもおかしくないような環境だったり状況だったりに、現在からこれからの人生で遭遇するか否かが肝心。これを運命と言えるのかどうかはわからないけれども、常に自分の意思次第。まっとうな人生を歩みたいか、それとも、人道を外れて私利私欲に生きたいか、それは自分が選択するわけだ。それに対して一般論では通用しない事情も人によってはある。

 国が法を定めても、その枠には収まらない生き方を望む人たちにとっては、悪の道でも生きたいと望むからそういう組織に属すのだろうね。そこが、死刑制度反対派の重視するところであって、更生させることが倫理的にも必要だとキレイゴトを並べるのだろうけれども、殺害された被害者は罪を償ってもらうことはできないのだから、死んで詫びろという死刑制度は必要だと思う。19歳以下の如何なる男女を殺害しても死刑、これくらい厳罰化しないと、日本の未来は絶望的。WowWowWowWowじゃねーよ(笑)

 10歳以下の子を殺害した親も、その背景に関わらず死刑でいい。なぜ10歳以下か、それは中学生や高校生は、犯罪に加担しやすくなった年齢でもあるから。第三者に迷惑をかけたり、第三者を事件に巻き込んだりする可能性が高まるのは思春期以降。成人年齢引き下げは16歳まで下げていい気がする。昔は16歳で結婚してたんだからね。

 実際、中学生とか高校生は、ガキ扱いされるのを嫌うでしょ?じゃあ、大人でいいじゃん。中学高校では、大人としての教育をすればいいんじゃないのかね?みんな平等じゃないってこともね。あり得ないよ、平等なんて。なんで頑張ってる人間と頑張らない人間が平等なわけ??強い人間と弱い人間が平等なわけないじゃん。もし強い人間と弱い人間が平等な扱いをされたら、世界中で行われているスポーツの中でも、ボクシングや格闘技は無意味になるだろう??あくまでも、それぞれのルールの中で競い合うわけだけどね。

 平成は酷い30年だったね。令和はもっと酷い30年になりそうだね。だからと言って不安視する必要もない。悲観すればつまらない人生になってしまうからね。あくまでも自分の人生を生きろよってことをボクは自分にも言い聞かせている。誰々がどうだから自分もそうするとか、絶対にあり得ない。そんな生き方は後悔しか残らないから。

 両親から頂いた五体と感情と思考は、悪のためではなく、一概に善のためでもなく、自分のためだけのものでもない。自分の両手のひらを見て、ちゃんと考えるんだ。「自分には何ができるのだろうか」と。そこから、今はできなくてもできるようになりたいこと、1つでも2つでも3つでも、可能な限り見つけ増やすんだ。

 「できる」ということは、いくらでも事実を残すことができる。自分の手でね。自分以外の誰でも、自分の出来ることに対しては認めざるを得ない。しかし、そのはずであっても、僻みや嫉み、いわば嫉妬から来る貧相な言葉しか言えない人間もその中には必ず一定数いる。彼らの言葉には「呪い」の意味も含まれているだろうね。例えば、「死ねばいいのに」とかね?もう長らく聞いたことがないけれども、言われていたかもしれない局面は何度もあったなぁ( ´艸`)いや、死なないし。臆病者なのでね。

 長生きするのは、自信家よりも臆病者のほうだよ。ほら、せっかく有名になって成功したのに人道を踏み外す人たちが後を絶たないのは、彼らが自信家だからさ。かつては有名になることを望んで努力していたにもかかわらず、その当時の自分の姿を忘れてしまったんだろうね?だから、成功したと思った瞬間から、その人の人生はどうなっても不思議はないってことだろうね。

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