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◆あらゆる圧倒的な力の最適な行使手段は、その力量を相手に認識させること。それができた時点で勝負は決する

 将棋で藤井聡太棋士に挑むことは、おそらく無謀以外の何物でもない。ボクシングで井上尚弥選手に挑むこともまた、おそらく無謀以外の何物でもない。

 戦うよりも前に対戦相手にこちらの力量を知らしめ、それが如何に圧倒的なものであるかを認識させることが出来さえすれば、戦わずして勝敗は決する。

 この世界では、団体競技での競い合いを主とする大会が毎年開催されているけれども、都道府県大会も甲子園もインターハイも世界大会もワールドカップも、どんな大会においても、学校や国、競技によってはウエイトなど、あらゆる枠組みが敷かれた上で勝負するわけだけれども、優秀な能力を持つ人をトライアウトなどの方法で篩にかけて人を揃えていく。

 それ故に、本来は戦ってみないとわからない勝負事だとしても、金銭や権利などをエサに強引にチーム編成している学校や団体は多々存在するため、よく言われる強豪校や競合団体の中でも常勝を自負しているような組織は、どうも“力の証明”について正しく認識していないように思われる。

 これは、ソシャゲでも共通して言えることかもしれない。元から圧倒的に強いプレイヤーで構成された上位10組にランクインするようなチームというのは、全体の中でも圧倒的に強いのだと言える。つまり、それほど強いチームと戦おうとするためには、同等かそれ以上の強さを持つチーム編成を要求されることになるわけだけれども、ゲームにおいてでさえ戦わずともわかるほどの圧倒的な力を持つチームを編成しようとすることは、遊び方を間違えているような気がしてならない。

 時に、スポーツや格闘技においてはどんでん返しや番狂わせが起こることがあるのも事実ではある。勝負は時の運が占める割合が一定数あるからであって、常に実力が物を言うわけでもない。しかしそういう勝敗の決し方というのは、どちらかが圧倒的な力を行使できていないか、もしくは、敵にその力量を認識させることができていないかのどちらか。

 勝てる領域を選択してトップに立つことが良いのか、勝てない領域を選択して負けることが悪いのか、土俵で例えられることがあるけれども、相撲界では土俵は一つしかないのに対し、ボクシングや空手や柔道などの格闘技においては体重別の階級で区分されていたりする。将棋に関して言えば段位や称号によって挑戦する権利が区別されていたりする。

 およそ力量の近い者同士が競い合うことで決まる勝敗が正しいのか、力量に関係なく競い合うことで決まる勝敗が正しいのか、対戦競技というのはそれぞれでルールが異なるため、勝利そのものの価値にも雲泥の差があるように見受けられる。野球とサッカーを比べて見てもその差は一目瞭然。

 審判やレフェリーが裏で買収されていたりすると、明らかにこちらの勝利だと誰もがそう判断するような試合でも、時に判定がねじ曲がってしまうこともある。

 結局のところ、人間同士の勝負というのは、環境が誰にとってもフェアで整っていない限りは競い合う意味もなくなってしまうのだと思うのだが、そういうものに生涯を賭して挑戦し続けることを美化しがちなこの世界は、やはり少しおかしいのかもしれない。

 直接戦うだけが勝負ではないとわかっていることが大事なのかもしれない。

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