見出し画像

【にゃむの注目記事】就職活動を前に大学生の間に蔓延した給付金不正受給とアニメ「NARUTO」に学ぶ平和と善悪

※上のリンクへアクセスすると動画を観ることができますので、良かったらご覧ください。

【提起】友達、幼なじみ、信頼・・・ってそんなに大事?

 小中高大、学生時代に(仲の良かった)友達、こういう認識をしている時点で詐欺に加担する可能性はあるのだということをわかっていない世代が狙われたのが今回の給付金不正受給事件。

 過去友人だった人たちと離れ離れになって何年かすると、人は変わる。住む環境、関わる人、受ける影響、これらは人の人格形成に不可欠なものでありながら、常に良いものばかりではなく、時には悪しき影響もあるのが社会。むしろ、圧倒的に多いのは悪しき影響とも言える。

 ボクの場合は、社会に出て以降、過去同じ時を過ごした人たちのうち、家族以外とは一切の連絡を絶っているし、彼らの情報も一切入ってこないようにしている。これはボクにとって普通の認識であり、なおかつ正常な判断だと思っている。

 動画の中で女子大生(仮)リサさんは、罪の意識がありながら幼馴染の男性の勧誘を断れず、100万円の給付金が口座に入金されるところまで加担し、実家に届いた給付完了の通知を親から問い詰められて事態が発覚し、親と共に警察へ自主したと語っている。

 日本人は元より、人間関係を保ちたいという保身からNoと言えない傾向にあるため、犯罪と認識していても、犯罪の疑いがあるとしても、友人や幼馴染からの勧誘を断れない傾向にある。

 友達、親友、幼なじみ、そう思っているのは自分だけで、勧誘してきた人間は詐欺グループに属していて、かつてそういう仲の良い間柄だった人に対しても平気で人生を踏みにじる行為をしてくる可能性は往々にしてあるのだということを、多くの若者が身を以って体感したのが今回の給付金詐欺。

 犯罪へ加担する疑いがある上で自分の人生と目先の人間関係を天秤にかけたならば、自分の人生を守ることを考えるはず。一度でも加担すればそれから先の人生は「前科者」の人生で、社会人として更生することから始めなければならず、社会復帰できたとしても「罪を犯した」という重圧を一生感じながら生きていかなくてはならない。

 人生とは、たった一度罪を犯すことで崩れ去るほど脆い。これに対してどれほど想像できるか、脳内の想像し得る領域の広さが問われているような気がする。

 日々ネットニュースで流れてくるあらゆる事件を自分とは無関係で他人事なのだと思い目を通すこともしないのは、ボクとしては考えられない。新聞は読まないけれども、いつでもどこでもネット記事を読むことができる現代社会なら、習慣として国内外で起きていることくらい簡単に知ることができる。

 それにより、自身の価値観とか死生観、善悪の判断、リスクに対するアンテナ、などなど、ほとんどオートで構成されていき、少し考えればわかりそうな想像くらいは働くような思考回路を作っていくことができる、とボクは思っているのだが、どうだろう(・∀・)あは♬

 取り返しの付かない罪を犯してしまうのは、犯した後に生きる自分の世界が想像できないからに他ならない。取り返しの付かない罪とはなんだろうか、っていうかそもそも罪とはなんだろうか、人生における失敗とはなんだろうか、あれ?今までどんな失敗をしてきたっけ??感謝とか尊敬ってなんだっけ??

 人が人として生きる上で学ぶべき最低限のことを学んだとしても、人は失敗するし、中には罪を犯す者もいる。結局のところ、人がどんなふうに生きるかまでは国家でさえコントロールはできないのだなということを、過去も現代社会も存分に知らしめている。

 それでも、親しい人間関係は、保たれるべくして保たれるのではなく、どういう属性の人間たちと関わるかを決める自分の判断で決まるため、簡単に善にも悪にも染まる。それが人間の根源的な特性でもある。世の中には善人面した悪党もいれば、悪党のように見える善人もいる。そして、時として善人であり、時として悪党になる人間もいる。

【アニメ】NARUTOに学ぶ平和と善悪

画像1

 まぁ、最近のアニメやゲームでも似たようなストーリーや構成になっているんだけれども、今回はNARUTOを例に平和と善悪について語ってみる。

 木の葉隠れの里が他里や他国から襲撃を受け、忍び同士で争い、大切な仲間を守るとか本物の平和とはこうだと敵が世界を支配しようとするとか、いろいろと起こるんだけれども、ストーリーが進むうちに、和解をしたり、かつては敵同士だった者たちと協定を組んで「うちはマダラ」や「ペイン」らに立ち向かっていく。

 自分たちにとっての平和と敵が自分たちに対して示す平和にはまるで別次元ほどの差があって、互いが目指す平和の在り方をぶつけ争う。当然、自分らは善で敵は悪なのだと互いに信じているからこそ起こる争いに、本当の意味での答えなど存在しないのだということをこのアニメは示している。

 最終的に、うちはマダラは「無限月読(ムゲンツクヨミ)」という禁術を発動し、月の目計画を達成し、月が輪廻眼へと変化したことで、世界は幻術に堕ちる。独裁思想の下に争いのない世界へ。主人公のナルトとその友人のサスケは、敵が示す不本意な平和の在り方をぶっ壊し、自分らが理想とする平和を取り戻す。

 人それぞれに理想とする平和の在り方が異なる場合、この世界は絶えず争いに満ちることになる。例え国単位でも、中小規模の組織単位であっても、それぞれに理想とする平和の在り方は異なるため、争いはなくならない。全ての人々が一つの平和の中に生きることは不可能なのだとわかる。

 得をする者あらば損する者あり。生きる者あらば死する者あり。善行を成す者あらば悪行成す者あり。

 ではここで問題。国家資格を持つ国家公務員である国会議員、警察官、弁護士、検察官、医者、公務員、彼らはみんな善人か。否!!!!寺の坊さん、神社の巫女、善人か。否!!!!彼らに限らず、全ての人間が元より善人であり、悪人でもある。

 生きる過程で善悪それぞれの行動比重がその時々で変化するのだとボクは思う。表向き好い人っぽい人ほど信用に置けないというのはよく言う話だけれども、これもまた人による。

 想像領域が狭いということが、考えなくてもわかりそうなことでもスルーしてしまったり、行動の先に起こることもイメージできないために愚行に走ったりと、自分の肉体の行方や言動さえ自分でわからないのだ。だから人は失敗して気付く。

 それと、失敗を失敗と認めない人は、成功することばかり考えて、足元の失敗を活かすことができない。上っ面の反省も同義。だから大した関係でもない人間との繋がりに固執したりそこに寂しさを紛らわすための目的を置いてしまう。

 あんまり自己犠牲を正当化するのは好きではないのだけれども、互いに心から仲間だと思える間柄であるならば、肉を切らせて骨を切る覚悟も持てるだろう。

 本来、親子関係なら仲間以上の覚悟で大切にし合えるはずなのに、子が親をころしたり、親が子をころしたり、通常では理解できないような出来事がこの世界ではあちこちで起きている。さも当然かのように。

 どうしてそんなことが起こるのかを考えてみても、子を授かった親が子を授かった事実に対して後悔をしているからとしか思えない。親は子の無事を祈り、常に心配をしている?万人に当てはまらないこういう言い回しは多用すべきではないように思う。現実を知らない絵空事でしかない。子が親に対して毒親としてしか見られなくなるのは、毒親の想像領域の狭さに起因する。

 世間に不満タラタラ、自分が属す組織に不満タラタラ、何かあるといつもアイツのせいだと愚痴垂れている、そういう種類の人間は、誰からも理解されない自己正当性を誇示することで誰かを傷付けて自分を保とうとする。

 毎日がつまらないからといって集団で人の心を弄んだりおちょくったりして面白がっている下衆野郎も、ビビりで弱いことを悟られまいとして強がっているに過ぎない。

 そういういろんな性格と強さ弱さを持ったどんな人たちのあれやこれやも受容することのできる人に、誰でもなれるのか?誰でもそういう完璧な人間を目指さないと「ダメ人間」なのか?

 だったらボクは、(他者の尊厳を傷つけても平気でいられるような)人から嫌われるための行動を選択する。結果独りになっても何ら問題はない。誰かと一緒にいないと不安で落ち着かないなどといった弱さは当の昔に捨ててきた。

 始めから自分には友達がいて人間関係に満たされるべきだなんて思っていないんだけれども、人と関わる上で生じる煩わしさは、許せる限りは許すけれども、そこに対して自己犠牲を払ってまで保とうと思えないのならどんどん切って捨てる。

 だからね、今世間では孤独を感じている人たちはたくさんいるかもしれないけれども、「孤独=±0」で良いも悪いもない状態だと思えばいいんじゃないかね?ってボクは思うよ。人と仲良くすることを半ば強制していた小学校時代の担任がボクは大っ嫌いだった。みんな仲良くしましょうって。

 仲良くしたい人かどうかを決める権利は個人に委ねられているんじゃないかね。それをさ、相手優位の条件だとか貸しだとか恩義だとかで縛り付けて仲良くするとか本当にあり得ない。自分が得するなら関わるっていうヒモみたいな人間は判別しやすい。そういう人間に金を払うなら一度きりだ。身銭を払って関係を絶つ。コスパとしては後の人生を考えれば最高。

 本気でぶつかって喧嘩した挙句に分かり合えるのなら、結構本物に近い友達になれるんだと思う。ナルトとサスケみたいに。でもさー、現代社会のいじめとかジメジメと陰湿なイメージ。カバートアグレッション的な、ね。直接言わない、直接攻撃しない、隠れたところから一生懸命攻撃してくる輩は、存在しないものとして無視するに限る。相手しちゃうとエスカレートするからね。

 でも、あまりにもしつこい場合は天註じゃ、天註。たぶん、ボクみたいな性格の人間と折り合い付く人ってなかなかいないんじゃないかな。普通に厳しいこと言うし。もちろん、本音として。耳障りなことしか言わない人には特に。そして、瞬時に超冷淡になれる。このタイミングで感情のプラグを引っこ抜く。言葉が丁寧な場合にはプラグイン。

 言葉で相手の感情を煽ろうなんて手抜きし過ぎでしょ(笑)それで相手がキレたら思う壺なんだろうけど、キレてしまう人はまだ自分の感情が理解できていないだけ。正直よくわからないんだよね。実害の無い雑な言葉の威力が。自分が心を許している相手から誹謗中傷を受けた場合には多少なりともショックは受けるかもしれないけど、全くの他人から言われて何か被害あるのかな。

 ボク自身はそう思っているから、昔ほど他人にイライラしたり怒ったり暴言を吐いたりってことはなくなった。いろいろと失敗して自分なりに学んだことも多いからね。

 人間観察は普段から癖付けておくと収穫が多い。人の顔、目、仕草、クセ、それらを普段から観察すること。情報が盛りだくさん。そのうち、相手特有の「らしさ」が見付かると、好きになれる。一見どこにでもいそうな人でも、自分が好きになれる要素を相手が持っているのだとしたら、見つけたいじゃん?

 結論として、どこにでもいそうな人間には興味がない。特異体質って言ったらいいのかな。未だかつて会ったことのないような要素を持つ人だったら面白いよね。

 視覚と聴覚をフルに稼働させて仕入れた情報を脳内で加工して想像領域の拡張資源とする、まる。真偽不確かな噂話はゴミ箱行き、まる。生憎、ナルトほど優しくはないのでね。基本的に信じない。期待もしない。祈りもしないし願いもしない。全ての結果は自ら起こす行動からしか至ることはない。そう認識していれば、他人のせいにしなくて済むでしょ。そういう意味での自己責任なら理解できる。

いただいたサポートは、今後のnoteライフ向上のために活用させていただきます!