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「いま自分が思い込んでいることの逆に活路がある」と思えば限界がないように思える。

 よく、こんな例え話がある。「自分たちが立っている場所が地雷の危険地帯だと認識した時、人は初めて恐怖を感じ、身動きが取れなくなる。恐怖の始まりは認識から。」と。これから進もうとしている道が怖いと思ったら、人は立ち止まってしまうという意味の例え。でも、その恐怖の確たる根拠はどこにもなくて、ただ誰かからそのように聞かされただけでも、同様に人は立ち止まってしまう。

 人が生きる上で最も懼れなければならないことは、根拠のない恐怖ではなく、「感じている恐怖が本当であるかどうかを確かめることなく避けてしまうこと」ではないかとボクは思う。そんな時、人はそれ以上、怖いと感じていることについて考えることを放棄してしまうんだね。もったいないなーって思う。本音を言うと嫌われたり、自分の立場が危うくなってしまうかもしれないと思って喉元でつっかえてしまって、結果のみ込んでしまう人がこれに当たると思う。

 好きだと思っている人に、好きだと言えないことも、言ったあとのことがネガティブなイメージしかできないと、結局言えず仕舞いで片思いの恋が終わることってあるよね。んー、これに関しては、その逆に活路があるかと言われるとそうとも言い切れないのが恋心なんだけれどね。せめて1回は気持ちを伝えることが大切だとボクは思う。2回目も断られてしまったら、諦めたほうがいいかもしれない場合もあるだろうし、3回目以降は迷惑行為とも取られかねないし、恋愛は互いに噛み合うことがなかったら成就しないところが難点だね?

 告白される側に立ったことが1度もないほどにモテたことがないから、好きだと言われる側の気持ちになったことがないのは、男としてはちょっと寂しい感じもする(笑)やっぱり1度は言われてみたい気持ちはあるね、うん。「どうせダメだろうな・・・」と思って気持ちを伝えないのは本人の選択であり、自分で勝手に作った壁だけれども、誰もそれでいいとは思ってないんだよね。人間って本当に不器用な脳に頭を悩まされるよね。

 その壁をブチ破れるほど馬鹿になれるってことは、人としての能力だと思うんだよね。人が一生で経験できることなんて高が知れているとも言えるけれども、人それぞれ、生きていく中で、時として壮絶な痛みを伴う経験をすることがある。大恥をかいて恥ずかしい思いをしたり、自身の非力さに打ちひしがれたり、自分のとった行動や言動で酸っぱい思いをしたり、ほんと、いろいろある。

 でもね、自分の経験(=過去)に対してどう捉えるかで、これからを「前に進んで生きる」「過去を引きずって後ろ向きに生きる」かが決まってくることを考えると、どっちがいいかって前者に決まってるんだよね。これは、みんなそうだと思う。でも、多くの人たちが「他者が自分のことをどう見ていてどう思っているか」を気にしすぎて、いざ自分のことを話そうとする時にはしょーもないプライドや見栄が邪魔して自分を取り繕ってしまう。昔はボクもそういうところがたくさんあったけれども、それが何の意味もなく、そして、何一つプラスに繋がらないのだということを30歳を迎えた頃にハッキリと正しく認識できたように思う。

 自分の過去においてどんな失敗をしてきたかは、隠すのではなく、むしろ堂々と話せるくらいであれば、きっと、他者の過去の失敗を嘲笑ったりバカにしたりすることはなくなるんだと思う。いま派遣社員として働いていると、自分がなぜ今に至ったかなんてことはいちいち思い返さなくても現在が明確に証明しているということを、今の自分がしっかり理解できている。記憶喪失にならない限り、人は過去を切り離して生きることはできない。

 でも、過去はアップデートすることができる。そのためには、これからどう生きていくか、これからどんな経験をするかを、自分で選択しなければならない。過ぎ去ったことにいちいち思考を囚われていては、選択しようにもブレが生じてしまう。だからと言って、自分の過去について考えることを避けることが正しいわけではない。過去は、自他共に自分の教訓にするだけでいい。まだまだ先は長いんだからね。過去よりも素晴らしい現在を生きようとすること、それに繋がるような発言と行動を意識して実行することが、やっぱり大事になってくると思う。

 朝目が覚めたら、どこにいるかもわからない、誰かもわからない異性と入れ替わっているなんてことは絶対に起こらない。これは「キミの名は。」の架空の世界の出来事。現実は現実でしかないんだよってことを、世の中に存在する創作物の全ては、生み出されるたびにぶち壊そうとする。人間社会は仮想現実と実際の現実を混同させようとしているのか、それとも、新たに何かを創造するために創作物を生み出し続けるのか、それはボクにはわからない。だけれども、考えることを放棄しない人は、それについて考える時間を持ち、現実の生活の視点・観点に付加しているのではないかと思う。

 高校生くらいまでは、アニメにも漫画にもテレビドラマにも映画にも小説にも全く興味がなかった。だから、それらについて考えることもしなかった。でも、それから15年あまり経った今は、何かにつけとにかく考えようとするし、文章化しようとする。きっとボクはその間に人としていくらか成長したのかもしれない。実のところ、自分は世間の同年代の人たちよりも、知能が遅れているのではないかと自分で疑いながら生きてきたように思う。あまりにも知らないことが多いことや、自分が如何に物事に関心がなかったかということを、今はかみしめながら生きている。

 きっとボクはこれからの人生、自分とは異次元の世界で起きていることについても、自ら関心を向けて考えるかもしれない。なぜ?どうして?と純粋に思える思考というのはとても重要だと思う。避けずに、とにかく考える。考え過ぎだとかいう一言で片づけるような人は、きっと考えることを放棄するクセのある人だろうから気にしない。実際に、他人事な物事なんてこの世のどこにもないし、未だ誰も知らないことも自分事として捉えることができるようになれば、人生は発見に満ちるだろうと思う。

 経験によって形成された価値観や偏見や思い込みというものは、あくまでも自分の経験によって作られたもので、常に、それとは別の視点で同じ物事を捉えられる多角的視点は「発見には必須の視点」だと今は思う。

「避ける」は経験の放棄なり。この言葉をオンライン上に飛ばす。挑戦は避けていては実現しないし、至るはずの結果にも至ることがない。挑戦の第一歩は、「考えること」だろう。放棄してしまっては、その第一歩目は踏み出せない。

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