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◆社会は今、タオルを投げ入れ試合を止めるセコンドのような役割を必要としている

 と思うんだけど、どうだろう??

 旧来の在り方に従属する悪い慣習から抜け出せずにいる日本社会は、多くのことに我慢してはいるものの、そのように辛い思いをしてもなかなか報われないといった状況があちこちで起きているような気がしてならない。

 新しいことを始めよう、ということではなくて、とりあえずストップをかける必要があることっていろいろありそうだよね。ストップをかけるとまた新たな問題が・・・って懸念されそうだけれども、一旦止めることで普段見過ごしていることに気付いたりするものなんじゃないかな。

 人間の感覚は日々の連続により麻痺していき、視野も狭くなっていくもの。明らかに生産性のない、効率の悪い、ただ辛いだけ、ただ面倒なだけの作業とかって腐るほどあるよね。

 人が多くいればいるほどそういう状況でも黙って従う傾向にある。人を減らせば自然と個々で工夫し始めると思うんだよね。これまで誰かがやってきたようなことを、人が減ったことをきっかけに別の人が担当するとなれば、そこには当然いくつかの気付きがあることに気付かされる。

 人を減らせば生産性は上がる。コストカットができ、作業効率も上がる。人が無駄に多ければ多いほど生産性は下がり、無駄なコストがかかり、作業効率は低いまま向上しない。そんな状況ならやらなければいいんだよね。やらないその人を責めるのか、なぜやらないと言い出すのかを考えるかで、その職場の体質がすぐにわかる。ただのわがままになっちゃダメだけどね。

 無駄なこと、意味の無いことはやらないと決めて工夫する方向に常に意識を向ける。それでいいと思う。周りがなんと言おうと。それで嫌われたり立場を貶められたりしたなら、そもそもそういう環境は自分とはご縁がないってだけの話。さっさと辞めてしまえばいい。

 世間がどうであれ、会社がどうであれ、自分で感じたことから思考を巡らせていくことが自分にとっての最適解になるんだから、他人の言いなりのくせに文句ばかり垂れるという自己矛盾に気付いているのなら、もっと自分の感覚に従ってみるというのもありだと思う。少なくともそれで自分は納得できるからね。他人を納得させるために生きているわけでもないでしょう?

 誰かが試合を止めるセコンド役を務めてくれて、限界を迎えそうな時にタオルを投げ入れてくれる、そんなシステム、この社会には今のところ存在しない。常に自分から誰かに相談しないことには話が進まない仕組みになっている。

 でもさ、素直に誰かを頼れる人ばかりでもないと思うんだよね。命の相談窓口みたいなNPOがやってるやつ、たくさんあるんだろうけれども、誰でも頼れているなら年間何万人も自殺してないっていう話。

 これね、アプリ一つで解決できるんじゃないの?って気付いた人がいたんだね、驚いたことに。安否確認を日に定時報告して、定時に報告がなかったら電話がかかってくるとかいうサービスがあるらしい。

 普通にこういうサービスを頼れる社会、もっと推進したほうがいい気がする。

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