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ポケモンとわたし


平素よりお世話になっております。みづさんです。


突然自分語りがしたくなったのでします。
自分の話を自分の視点でしか話しません。どうぞ良しなに。

タイトルにもある通り、今日はポケットモンスター縮めてポケモンとわたしの話をしたいと思います。



わたしと弟が人生で初めて手にした新品のゲームソフトはポケモンの銀バージョンでした。
たしかクリスマスプレゼントだったと思います。
アニメしか見てなかったポケモンを遊べるのが楽しみで仕方なくて、ゲームを貰うよりも先に親に攻略本を買ってもらったことを覚えています。
あとは、ゲームやアニメなんかの方面の話に疎かった我が家のサンタさんは、ポケモン銀のソフトさえ買っておけばゲームができる(たまごっち的なもの?)と思っていたようで、
「うちにはゲームボーイがないからポケモンが遊べない」と、弟と一緒に仕事終わりの父親に訴えた記憶もあります。
くそ寒い夜中に父親は自転車をこいでゲームボーイカラーのクリアパープルを買ってきてくれました。

そんな紆余曲折がありつつも当時小学校低学年だったわたしはようやく銀バージョンを起動し、弟と、初めての相棒となったみずポケモン・ワニノコと一緒に旅をしました。

それからというもの、わたしはなんだかんだポケモンシリーズの新作が出るたびにだいたいのソフトを遊んでいます。同時発売の2バージョンのうち片方のみしか遊んでないとか、過去作のリメイクをスルーしたりだとかいうのはちょこちょこありますが、完全新作と呼ばれていた作品についてはその都度購入していました。順番的には、

銀・金・クリスタル→サファイア・ルビー→パール→ハートゴールド→ホワイト・ブラック2→Y→オメガルビー→緑→サン・ウルトラサン→シールド

だと思います。だいぶうろ覚え。でもおおむねそんな感じで遊んでました。ブラック・ホワイト以降の作品は割と惰性で買っていたという面もあり、
エンドロールを見る前に投げ出した作品もあったりします。
それでも、半ば義務感や惰性になっても、ポケモンシリーズだけは常に最新作に触れ続けていました。

惰性になっても、なんでわざわざ追いかけ続けているのかと考えたとき、
多分わたしにとってポケモンは「すき」なコンテンツなのではなく「推し」コンテンツだからでは?というのが一因として挙がりました。


以前、大学生のフォロワーさんと会った時、彼女が「『推しと好きの違い』というテーマで論文を書こうと思っているという話をしてくれたことがありました。
結局そのテーマで論文が書けたのかどうかわたしは存じ上げないのですが、その話を聞いて以降、たまに思い出したように「推し」と「好き」の違いについて考えるなどしています。

あくまで現時点の、自分なりの捉え方なのですが、距離感の差なのかなぁとぼんやり思います。面白みのない答えでごめんなさい。

わたしが何かを推す時、推されているものは少し遠くにいるように感じます。
だから、推しのいいところも悪いところも全部が見えてしまいます。
一方で、推しは他人にはとても勧めやすいです。
なぜなら推しがその推しトークを聞くことはまずないし、他人が推しを気に入らなくても、他人から推しの距離も少しだけ遠いので、他人側も見なかったふりをしやすいからです。

わたしが何かをすきになる時、大抵すきなものは近くにいるように感じます。
だから、目の前にあるいいところばかりが見えてしまって、悪いところは見えにくくなります。
一方で、すきを人に紹介するのはちょっと怖いです。すきを否定されると、近くにいる自分自身までもが否定されるような気持ちになってしまうからです。

 ※どちらがどちらの上位互換というわけではないです。
  打ち上げ花火を下から見るか横から見るかくらいの違いです。


話が逸れましたが、わたしにとってポケモンは推しコンテンツです。
ポケモンというコンテンツは、新作が出るごとに新しい楽しみ方や物語を提供してくれます。
新しいポケモンや登場人物だけではなく、
「メガシンカ」や「ダイマックス」といった戦闘における新要素、
ポケモンと触れ合ったり一緒にフィールドを歩いたりといったコミュニケーションにおける新要素など、その範囲は多岐に渡ります。
時には提供される側から「受け入れられない」と非難されることもありますが、それでもポケモンは常に、まだ誰も体験したことのない『楽しい』を模索し続けています。
そういうところがわたしが推している理由の一つであり、世の中から愛されている理由の一つでもあると思っています。

ただ、新しいことへの挑戦を続けて、たくさんの人から愛されている一方で、ネガティブな事態が起きたことも幾度かあります。
シリーズ毎に増えていく各キャラクターやポケモンの量は膨大なため、公式から特別にプッシュされているポケモンもいれば、数年単位で新作グッズが出ないポケモンもいて、中には公式から自虐めいたsageを行われてしまう子もいます。
ストーリーやシステムもリニューアルすれば良いものになるというわけでもなく、ファンの間で物議が醸される様子や、公式の度が過ぎた”おふざけ”なんかに失望した人たちの姿も何度か見てきました。

そんなポケモンという存在がすきであると盲目的に言い続けることは、
今のわたしにとってはとても難しいことですが、それでもポケモンはわたしにとっての推しであると言い続けることならできるんですよね。
それは恐らく、常に新しい楽しみを提供し続けようとするスタイルが格好良く感じられて、グッズの売り方とかがすきじゃないなぁともやることもしばしばあって、そういういろんな感情を総括したうえで最終的に「ポケモンががんばるなら応援したいなぁ」と思えるからだと思います。

当たり前なことを難しそうに語ってしまってすみません。浅慮がばれる。
余談ですが、わたしがこの世で一番だいすきなポケモンはカビゴンちゃんです。
カビゴンちゃんに関しては間違いなくバリバリ最強No.1にだいすきなポケモンです。最推しという言葉が便利すぎてつい使ってしまうのですが、だいすきなんです。
カビゴンちゃんだけはすきになった時からひたすら盲目にすきであり続けています。一生一緒にいてくれや。
その辺の話もいつか機会があればするかもしれません。
(長くなるうえに自分の暗黒時代の記憶も掘り返さないといけないので時間をください)


長々と語ってきたのですが、そもそもなんで長文note第1号としてポケモンの話を取り上げたのかというと、
9月ごろに公開された「GOTCHA!」PVの衝撃がすさまじかったことが理由の一つです。


どのくらいすさまじいかというと、未だにPVで使用された「アカシア」が聞こえてくるだけで涙ぐむし、PVを見ると通勤中であっても99割の確率で鼻がずるずるになるくらいです。もうほとんど条件反射みたいな感じで感極まります。

あのPVが公開されてすぐにPVに関するいろんなつぶやきがタイムラインを流れていきましたが、その中でも個人的に覚えているのが、
「ラストの方にある、スクリーンに映ってる歴代博士たちが男の子と女の子を見守ってるカットが、『今までプレイヤーがポケモンの世界を見てきたように、ポケモンの世界もプレイヤーたちのことを見ているんだよ』というのを暗示してるようで泣ける(意訳)」という呟きです。
もうそれ読んだ瞬間に涙ぼろぼろなったのを覚えています。

俳優さんや特定の作品の応援をしているとたまに感じる「ファンの概念」に対しての愛みたいな、めちゃくちゃ簡単に例えると俳優さんの言う「いつも応援ありがとうございます」の言葉みたいなものを、
GOTCHA!PVはめちゃくちゃ丹念に練り上げて全力でぶつけてきてくれたのだとわたしは勝手に解釈して、それで勝手に情緒をめちゃくちゃにされました。

24年間ポケモンを応援し続けた人、離れていった人、あるいはまだポケモンに触れたことのない人たちに対してのポケモンからのクソデカ感情メッセージのように感じて、20年ポケモンを遊び続けてよかったなぁと思ったし、
もうしばらくはポケモンについて行こうとも思いました。

そんな衝撃に対する気持ちを語りたかったがゆえに、今回のテーマを「ポケモンとわたし」にしました。
ようやくちょっとだけ整理がついたような気がします。


中身のない話をいつまでも話してしまってすいませんでした。
ポケモンに向けてる感情は今でこそ「推しコンテンツ」ですが、それがもしかしたら明日には「嫌いなコンテンツ」になってるかもしれませんし、もしくはまた別の感情になっているかもしれません。

ただ、少なくともポケモンはみづさんという人間を構成する成分の中の一つであり、わたしにとっては替えのきかない、唯一無二の存在であることは間違いないんだと思います。


最近140字以上で自分の感情を語る機会がなかったのと、
人の文章に触発されて長文を書きました。
感想なり文句なりある方はついったのぷろひ欄に貼ってあるマシュマロあたりに投げていただけると嬉しいです。


ありがとうございました。

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