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文章とわたし

平素よりお世話になっております。みづさんです。

先日からどうもテンションが上がりきらないnoteばかり書いているので、何か楽しい記事でも書いてみようかと思ったのですが、何も出てこなかったのでやっぱり自分の書きたいことについて書こうと思います。
先日、一方的にすきだなぁと思っているライターの方がこんなことを呟いていました。

このつぶやきを受けてタイムラインの人たちがそれぞれ自分のことをお話ししているのを見て、いいなぁと思った(ものの当時のわたしはその流れに乗りそびれていた)ので、世の流れから周回遅れではありますが改めて書いてみることにします。
そういうわけで、文章を書くこととわたしについてのnoteです。
よろしくお願いします。


わたしはいわゆるオタクであり、例えば人の作った世界をお借りして創作をしたり、自分で世界を作って創作をしたり、思い立った時にツイッターやnoteでだらだらとお気持ちを書き殴ったりしています。
たまに「みづ氏は絵描きなのか字書きなのか」と聞かれることもありますが、物語性のある何かを創ろうと思った時にはだいたい文章を書いてきた人間なので、いつも「どちらかと言えば字書き」と答えています。

先に引用した横川さんのつぶやきでいうと、わたしは『いろいろやっている中で唯一人から褒められたのがお芝居だったからお芝居を続けている人』の方が近いです。唯一人から褒められたのが書くことだったので書き続けている人です。

初めて自分の書いた文章が褒められたのは、小学3年生だか4年生だかの時でした。国語の授業の中で「自分で物語を作ってみよう」みたいなカリキュラムがあり、その授業で提出した作品を担任の先生に褒めてもらえた覚えがあります。
別にクラス全員の前で褒められたとかではありません。授業後の休憩時間に教卓の近くを通りすがったらたまたま手元にわたしの作品を置いていた先生が、たまたま通りすがったわたしを褒めてくれただけです。それでも当時のわたしはそれはもう舞い上がるほど嬉しかったみたいで、あれから十数年経った今でも、作品の内容や褒められた時の景色を覚えています。あんまり細かく書くとだんだん恥ずかしくなってくるので詳細は控えますが、イルカの女の子が主人公の話でした。

わたしは見ての通り、今も昔も陰キャを絵に描いたような性格です。
特段友達が多いわけでもなければ、抜きんでた容姿を持っているわけでもなく、足も遅ければ体力もない。音楽や勉学の才に秀でているわけでもなく、要するに人に褒められる機会なんてほとんどない人間です。こと運動面や人付き合いにおいてはなぜできないのか、なぜそんなことをしたのかと指摘されることの方が多い人生を送ってきました。
だから、おそらく担任の先生にとってはそんなに大したことのない「よかったね」という一言だったんでしょうけれども、小学生時代のわたしには天啓のように聞こえたのではないかと思います。幼心に「小説家になりたい!」と思ってしまう程度には嬉しかったようです。

それからも、わたしが評価されるのはたいてい「文を書いた時」でした。市や学内のコンクールで表彰されたり、直近でいえば、某企画様で文章の訴求力を評価していただけたのも記憶に新しいです。
そうして評価を得るために、もしくは自分の表現したいものを表現するために文を書いていくうちにようやく、「それなりに文章が書けること」は自分の数少ない取り柄の一つであるのだなという自覚が持てるようになりました。
人に分かりやすく説明すること、自分の気持ちを訴えること、情景が浮かび上がる文章を書くことが自分は得意である。そして「書く」という行為そのものを楽しめる人間であるのだと気づいたことで、劣等感まみれだったわたしは、ほんの少しだけ自分に自信が持てるようになりました。

また、気持ちを文字に起こすことはわたしにとって最も気持ちの整理をつけられる行為であるということにも、最近気づきました。例えば、以前に書いた「メサイアとHELI-Xとわたし」「壽とわたし」あたりの記事は、間違いなくその役目を果たしてくれました。この二本のnoteに関して言えば本当に、書くことでようやく積もり積もってた気持ちに区切りがつけられたように思います。

わたしはなんというか、抱えてしまったもやもややいらいらを自分の中で消化するのがめちゃくちゃに不得手です。自分の中で折り合いをつけようと思ったことを消化しきれずに数か月、長ければ年単位でもやもやし続けることもざらにあります。


発散の方法という点だけで言えば、書く以外にもやり様はたくさんあると思います。遊んだり勉強したりして気を紛らわせる、人に話す、お酒を飲む、とか。
それでも、思いの丈を全部文章に起こすことが、やっぱりわたしの中では一番すっきりと気持ちを消化できる気がしています。もちろん、悩んでいることを人に話したり、愚痴やら何やらを聞いてもらったりをしないわけではないです。むしろします。
ただそれはどうやったって会話になってしまうわけで、会話になってしまうとどうしても言いそびれたこと・言いあぐねたことがでてくるわけで、そうなるとやっぱり心のどこかにはまだもやが残ったような気分になります。
衝動的なワーーッ!!!!!!という感情であれば声に出して発散するのが一番だとは思っていますが、もっとモヤ……とした、わだかまりのような感情は(わたし個人は)書いて消化する方が向いているなと思いました。

さて、そんな邪な意図を持ったり持ってなかったりしながらnoteを書いたりツイッターでお気持ちをつぶやいたりすると、ありがたいことに「書いてくれて嬉しい」というお言葉を頂くことがあります。
「自分と同じ気持ちの人がいると分かって安心できた」とか、「自分と違う立場・感想の人の気持ちを聞けて嬉しい」といった感想を頂くと、月並みな言葉にはなりますが「書いてよかったなぁ」と思います。(それ以外の感想やコメントももちろん全部嬉しいです。いつもありがとうございます。)
そして、プロでもないわたしなんぞの文章に対して一言でも感想を書いてやろうと思って行動してくれた心意気そのものにも、ありがたやありがたやという気持ちになります。

わたしは、それはもう母親の胎内にコミュニケーション能力を置いてきたんじゃないかってくらいに、人と関わることが苦手です。人と目を合わせること、会話を盛り上げること、場の空気を読むこと、興味のない話を聞くこと、相手のことを知ろうとすること、全部が不得意です。
でも、文章を書いて、タイムラインの人々や見知らぬ方々から反応を貰えると、こんな自分でもまだぎりぎり人と繋がることはできるんだなという実感を得られます。評価を貰うために頑張って書いた時のように、今は自分以外の誰かと繋がるために頑張って書いています。

もはやここまで来ると依存症みたいなものだなと、この文章を書きながら現在進行形で思っています。反応依存というか、典型的なSNS依存症の人たちと似たようなものを感じます。実際、それなりにいろいろ考えて書いた物が誰にも読んでもらえなかったりすると爆速で鬱状態に陥るので、ちょっと反応や評価に依存してしまう癖については治したいなと思ってはいます。思ってはいる。

わたしのフォロワーやお友だちには、わたしより魅力的な文章を書かれる人がたくさんいます。
底なしの語彙を持っている人もいれば、感性や表現力が豊かな人もいるし、一つの作品にかける熱量が桁違いな友だちもいます。
彼ら彼女らの能力や熱量を恨めしく思ったり、あるいは自分より評価されてる人の文章を見て「わたしのがおもろい文章書けるのになんであいつばっか」と妬んだりすることもたくさんあります。
でもわたしにとって「ああなりたい」とか「わたしの方が」とか強く思ってしまう現象が起きるのは、今のところ「文章を書く」時だけです。

文章を書くことこそが生きがいだとかプライドを持って書いているんだとか、そんな大仰なことを語るつもりはないし、語れるほどの努力もしてはいません。
ただ、わたしが自分の形を保ち続け、自分をより良い形に形成していくには文章を書くという行いが絶対に必要なんだなとは考えています。わたしが人間として健康で文化的な最低限度の生活を送るためには、劣等感とさみしさと虚無で死なないためには、もう文章を書くくらいしか残っていないみたいです。


まぁでもそんなことを息巻いて書いたとて、誤字も脱字も普通にやらかすし、あとから読み返して「下手だなこいつ」と思うこともままあります。多分このnoteにも誤字脱字いくらでもある。
だからまずはnoteにせよツイートにせよ、一呼吸おいてから呟くことを心がけたいと思います。頑張るぞ。
あと、わたしがタイムラインで「〇〇さんの文章すき」とか発言しているときは8割くらいの確率で大真面目なので、ニヨ……とあったかく見守ってもらえれば幸いです。


今回はいつもに増して隙自語度が高めで申し訳ありませんでした。
お題箱を開放しているので、感想やら文句やら入れてもらえるととてもとても喜びます。

それでは、今回もお付き合いいただきありがとうございました。
真冬みたいな寒さバグの修正パッチ配布はいつですか。

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