死神紫郎 コラム「声明文」2020年5月号(Vol.1~Vol.4)

Vol.1「テストからの解放」

これは死神紫郎がブログを引っ越して初となる、
いわばテスト投稿である。

テストというものから解放されたのは、今から15年前だ。
このときの心境は今でもはっきり覚えている。

テストのない生活。
もう、私は試されない。試験もなんにもない。
やった。馬鹿どもめ。
と思っていたが甘かった。

馬鹿なのは私であった。

学校のテストよりも面倒かつ、
糞と味噌で煮詰めたような難題が
社会に出た瞬間から降りかかってきたのである。

飯を食って生きていくということである。

飯を食うだけでも疲れるというのに、
その飯を買うためにお金を得る必要があったのだ。

お金を得るためには、働くしかない。

音楽活動での収入もあったが、
当時はライブのチケットノルマ地獄で、
まずいときは月に10万も売れ残り、
その代金の支払いに追われていた。

音楽で飯を食うなどとても考えられなかった。

なので強制的に働くことになったのだが、
まず私は「挨拶」がロクにできない。

いつもなにか考え事をしているので咄嗟に反応できない。
これは働くことにおいて大きな障害であった。

人の顔を見て「あ、」と思ったときにも、考え事が続いている。

どうしようと思っているうちに挨拶をするチャンスを逃している。

「しまった」と思ったときにはだいぶ遠くに相手がいる。
それで後になって、
エラい人から「挨拶ができない」と咎を受ける。

以降は少しは改善を試みたが、
考えを断ち切ることがどうにも難しい。
結句、挨拶ができないまま15年が過ぎてしまった。

それでもとりあえず飯を食うお金がもらえて、
今なお生きているから割と人生どうにでもなると楽観している。

とりあえず、馬鹿でも阿呆でも、
社会不適合者でも死ぬまで生きたらいいと思う。

死神紫郎の音楽は、
そういう生きづらさを持った人に向けて発している。

発っ!

Vol.2「世界のすべて」

こう毎日外出自粛をしていると、家の中が世界のすべてになってくる。

だから唐突に風呂場磨きなんかを始めてしまう。なにか贖罪しているような気持ちになる。日ごろの自身の汚れを落とすような心持ちで無心で擦る。贖罪のあとに飲むホット豆乳は旨い。こういうスタイルの贖罪ならまたしてもいい。

北側の自室の窓から見える他家の大きなコンクリート壁が、雨が降るとじわじわと色が変わっていく様子が面白い。大きな家である。死神紫郎「牛は屠殺を免れない」のMV撮影の際に、天使弾道ミサイル監督が「ここの壁で撮りましょう」と言ったくらい雰囲気がある家なのだ。(「近所すぎてダメです。」と断った。)

どこからか聞こえてくる、だんだん上手くなるショパンはいったい誰が弾いているんだろう。毎日練習時間は短いのにどんどん上手くなっている。きっと頭が良い人なんだろう。なんとなく、そのタッチから演奏しているのは女の人な気がしている。(そういうのって性差別なのかしら?)

また別な方角から、パクチー喰って悶絶中みたいな犬の鳴き声がしている。苦しみ、悲しみ、恐怖が混ざった鳴き声だ。虐待でないことを願う。私は犬が怖い。どんなに小さな犬でも怖いと思ってしまう。子供のときに幼馴染みが野良猫のしっぽを引っ張って足を噛まれて流血しているのを見て以来、猫も犬もダメになってしまった。犬関係ないじゃん、もう完全な風評被害。でも犬が怖い。人間と同じくらいに怖い。

せっかくの引きこもりなら、と引きこもり感を楽しむためにカップラーメンを買ってきた。お湯を入れてからの4分間は異常だ。長い。ノンフライ麺というのは、ほんとうのラーメンみたいだ。すごい。ラーメンにほんとうとウソがあるのか?あるのだ。人間にだってあるのだから。

ついでに、ラーメンに入っている「なると」について考える。あれは“旨い”ではなく“かっこいい”というカテゴリーに属するものだと思っている。周囲がギザギザなのに、なかの渦が真ん丸なのである。真っすぐ切ってもかっこいいし、斜めに切ってもかっこいい。なるとを食べるとき、どこか私は得意げだ。仮面ライダーにでもなったような気持ちになる。かっこいいものを食えば、誰だって簡単にかっこよくなれる。

そもそも。人間一人一人神であり、自分教の教祖なのだ。みんな俺は恰好よくて、私は可愛いでいい。他人の価値観など気にするな。それこそ他人事じゃないか。自らをちょっと大げさにでも讃えた方が良い。

生きることは自己肯定の連続なのだから。

Vol.3「“遺言書  遠藤ミチロウ”を読んで」

パンクロッカーの遠藤ミチロウ(スターリンというバンドのボーカル)が
68歳で亡くなって1年経ち、
命日の4月25日に遺言書の一部が公開されたのを読んだ。

遺言書 | 遠藤ミチロウ
http://apia-net.com/michiro/message/index.html

ちょっと意外な内容であった。(以下抜粋)

「もっともっといい歌をいっぱい作って、歌いまくりたかったのですが、
それもかなわぬことになってしまったのは、どうしようもない運命です。
残念です。さようなら。」

遠藤ミチロウというキャリア40年クラス、
日本語パンクの先駆者なのだから当然、
「十分やり切った」、「悔いなし」
とでも言うのだろうと勝手に思い込んでいた。

それが「残念です」と最後に悔いを滲ませいる。

更なる高みを目指し続けた人間だからこそ、出た“悔い”なのだろう。
「これでいいや」じゃダメだからやり続けたからこそ、
滲んだ“悔い”なのだろう。

この遺言書を読んで、
私はいったいいつまでやり続けることができるのだろうか、
それまでに理想の音楽にどこまで近づくことができるのだろうか、
あと30年、月1本のライブ活動したと仮定して、
360本しかライブできないじゃないかなどと心配し、恐れている。

理想の音楽を追い求めていたら15年が過ぎていた。

あまりに早い時間の経過だった。
昨年4thアルバム「さよなら平成」を出したとき、
「そう、この方向」とようやく1歩近づいたくらいの感覚でいる。

命というのは平等だ。
北朝鮮のエラい人も、ウーバーイーツの配達員も、
理不尽にこの世に生み落とされて、あるとき死んでゆくからである。

命は長いか短いかで言ったら圧倒的に短い。

宇宙ができて138億年の歴史で見たら、
金さん銀さんの100歳すらもhydeの身長くらいに短い。
100年以内に今生きている人のほとんど死んでしまう。

大変なことである。

さて大変だ。どう生きよう。
と焦ったところで、短いものは短いのだから仕方ない。
短いのだから、あとは太くするしかない。

太くするには、やりたいことをやりまくる。
そして、やりたくないことはなるべくやらないことだ。

“365”日、眠るまでは。

Vol.4「オリジナリティについて」

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