私が生まれた10月15日も雨の降る木曜だった。

はい、こんにちは。

そうなんです。先日誕生日でした。いつから誕生日が素直に楽しみじゃなくなったのは。悲しいですね。大人になってしまったってことなんですかね。

タイトルの通り、10月15日生まれなのですが、私が生まれた日は木曜日で雨が降っていたそうです。今年の10月15日も木曜で、私が住んでいるところは雨でした。見事に一致。だからなんだってところでもありますが、なんだか「ふむ」って思ってしまいます。

あ、10月15日が木曜の年を調べて年齢を出そうとしないでくださいね、って誰もしないですね、ふふふ。

この日、ここ最近全然連絡を取ってないのに「おめでとう」って連絡をくれた人の中に自分が存在してるんだなっていうなんともいえない気持ちになりました。悪い意味ではなく。

連絡くれたのは複数名いましたが、その中でもほほうと思ってしまった人が。

半年ほど仲良くしていただいた方で。まあお互いにすきだったんですけどね。相手の方が仕事やらでずっとここにいるわけではないしで寄り添うことはなく。自然とすっと距離ができて会うことも連絡を頻繁にとることもなくなりまして。3ヶ月くらいですかね、なんも連絡取ってませんでした。

でも、おめでとうって連絡くれたんです。たった3ヶ月だけど、半年ほどみっちり一緒にいたので結構遠い昔な感覚なんですよね。

そんな人から連絡がくるなんて思ってなくて。未来がないから離れたのに、覚えててくれて連絡までくれるなんて。この人には敵わないなと思いました。まだ自分はこの人の中に存在してるんだって思ったら、久しぶりに会いたいなとか思っちゃいました。お互いに会いたいとか言わないんでなにもないですが。

すごいよくない考えだってわかってるんですけど、私がいない世界で何事もなく生きていける人って私にとって必要ないと思っていて。もちろん「お前がいないと生きていけない!!!」とかそういうのを望んでいるわけではないです。

私と出会ってしまった以上、相手にとって私のいない世界はこの先訪れない。逆も然りで、私も相手を知らない世界はもうない。

だけど、私の存在を完全に忘れきって私が存在しない世界を取り戻す人もきっといるわけで。記憶から完全に消えなくても、私がいてもいなくてもなんら変わらないような位置に私を置いてる人。そんな人を自分の世界に置いておきたくない。

だから私は、私が存在しない世界で生きていける人は私にとっても存在しない人。っていう考えがどうしても抜けないので、たった3ヶ月でも空白の時間があった人の中に自分が存在できていたことに驚きました。

少しお恥ずかしいですが「この人は自分を消さずに一緒に置いてくれてるんだ」って少し恋しくなりました。ほんと、こういう人すき。

ちょっと過剰な言い回しですけどね。自分がいない世界に生きていける人は〜なんて。もっと穏やかな言い方できないもんですかね。

そんな感じでね。自分の存在を認識した誕生日でした。

「我思うゆえに我あり」よりも「他者からの観測により己の存在を認識する」タイプです、完全に。


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