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映画恐怖症だけど映画を観てしまった正月

映画を観るのが怖い…。

なぜなら、悲しくなったり、笑い転げたり、感動に浸ったり、恐怖に襲われたりと、感情を大きく揺さぶられるから。ジェットコースター並みの感情のアップダウンがあるためです。

戦争モノ映画を観たら、実際に自分が殺されているような気分になるし、恋愛モノ映画を観たら、実際に自分も恋に溺れているような気分になってしまいます。スクリーンの中の世界に留まらず、自分の世界も侵食されて行くような感じがします。別にホラー映画でなくても。

手に汗を握りながら映画を観るのは苦しいと感じてしまうのです。平静を保てないと、自分じゃなくなってしまうような、自分の本質から分離してしまうような恐怖心があるのです。

観たあとは、どっと疲れて、でも興奮が止まないので眠りにつけないのです。

そんな私も、元々は映画が大好きな人間でした。

中学生の時は、映画館に足繁く通い、なけなしのお小遣いをすべて映画に流し込んでいました。当時の映画館の椅子は愛想のないほど薄っぺらでお尻が痛くなるようなもの。また、総入れ替え制ではなかったので、同じ映画を何回も見て1日を過ごしました。リバー・フェニックスのアンビバレントな表情がたまらなく好きだったし、意味のわからない大人の世界を垣間見ることが楽しかったです。

アメリカに暮らしていた頃は、毎週末ポップコーン片手に、コカ・コーラをもう片方の手に持って、分厚いクッションのあるソファーのような椅子で映画を観ていました。アメリカの映画館は大声で笑ったり、声をあげて号泣しても赦される場だったので、躊躇いなく感情を吐き出しながら映画を鑑賞していました。

でも、いつの間にか映画のなかで、ジェットコースター並みの感情のアップダウンを体験するが恐ろしくなってきました。

すると、製作者側の視点で観るようになりました。つまり、主観的に観るのではなく、映画と距離を置いて客観的に観はじめたのです。私の場合、映画恐怖症による防衛反応だと思います。

ここで泣かすためにこの音楽を流そうって決めたんだなって分析したり、この女優さんを採用したのはマズかったねとか思いながら観るようになりました。また、英語の映画だったら、英語を聴きながら字幕をチェックして、長いセリフを短く的確に訳すのはスゴイなって、そんなことを考えながら観ていました。そうやって感情のジェットコースターを避けて、平静を保っていました。

すると、

映画がぜんぜん面白くなくなってしまいました!

そして、映画をまったく観ない人生に転落

過去15年間に観た映画はドキュメンタリー映画と、社会的な映画の2本だけ… だと思います。

ところが!!!

何を思ったのか、この正月に映画を2本も観てしまいました。

相変わらず、息が苦しくなるほど笑いました。かと思うと、ぎゃんぎゃんに泣けました。心が鷲掴みにされたような、もう寝込んでしまいそうなぐらい落ち込みました。感情のジェットコースターは健在でした。でも、映画のエンディングが希望の光に溢れていたので、ちょっと救われました。

で、感じたことは…

登場人物たちに自分を重ねて感情的になるような体験をしているということが、擬似的な体験であったとしても、私の人生で体験できる限界を超えて、ちょっと違う世界を主観的に感情的に体験できるというのは、私の人生を豊かに鮮やかにしてくれるし、映画からたくさんの気づきも与えてもらえます。感情が揺さぶられることを恐れて映画を観ない人生って、つまんないじゃん! 

それとは別に、心揺さぶられることを恐れて、あえて避けていることって山ほどあることを痛感しました。私は多少なりとも失敗恐怖症なんだな…。

例えば、こうやってnoteに自分の感じたことを書いてもスルーされるのが怖いから、最初っから何も書かないで、心の平静を固守するとか…。 何かチャレンジしたいけれど、失敗して心が折れるのが怖いから、最初っからチャレンジを避けるとか…。実際に、傷ついたり心乱れることを怖がり、大切なことを実行しないことは星の数ほど多くあるんだと、今日、久しぶりに映画を観て感じました。

ちなみに、失敗恐怖症っていうのはAtychiphobiaで治療対象になりえる恐怖症の一つですが、映画恐怖症というのは私の造語だから専門的な分野で存在するのかわからないのであしからず。

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