双恋('04秋)を観た

今期アニメの録画だって溜まりに溜まっているのに、つい目の前の過去作に飛びついてしまった……そんな弱い僕を許してほしい。

双子の対称性アピールがすごすぎ

『双恋』というアニメを観た。2004年の秋クールに放送されていたアニメで、全13話。同期のアニメはローゼンメイデン(無印)やなのは(無印)、W~ウィッシュ~、くじびきアンバランスなどで時代を感じてしまう。

オタクになり始めだったころ、アニソンだけを漁っていた時期があって、そのころにたまたま知って以来、僕はアニメ『フタコイ オルタナティブ』のOPである『New World』という曲が好きだった。長らく曲だけが好きな状態で本編を観ていなかったのだが、数年前、いい加減見ないとなと思い立ってその『フタコイ オルタナティブ』は視聴したのだが、そうなってくると今度はオルタナティブだけを知っていてそもそもの本家『双恋』を知らないというこれまた誇れたものではない状態になってしまっていた。
なので、この土日にふと、本当に唐突に、視聴しようという気持ちが湧いたので、『双恋』を一気に視聴したわけである。これまた古いオタクのフレーズを使えば、ポロロッカだね(絶望先生も懐かしい)。

いい加減本題に入ろう。

アニメ本編の感想

最終話まで観た感想を一言にまとめると、かなり時代を感じる作品だったなということになってしまう。何がと言われると、作品が出した結論がだ。

ざっくりと最終話までの流れを説明しておくと、女の子の双子がたくさん生まれるとある街に、幼稚園時代ぶりに戻って来た主人公の二見望(のぞむ)が、幼馴染の一条姉妹、それからお嬢様の桜月姉妹と繰り広げるラブコメを中心に物語は展開されていく。

世間知らずな桜月姉妹の幼い(ともとれる)憧れのような恋心が望に告げられたのは第7話で、このあたりから、かなり複雑に入り乱れる恋愛模様が描かれ、どのような着地をするのか(できるのか)と気になって最後まで再生する手が止められなかった。
望に思いを伝えた桜月姉妹は、曖昧な態度を続ける望に対して「例え彼が別の誰かを好きだとしても、自分たちの想いは変わらない」という結論を双子の間で確認していた。
しかし、そんな彼女たちが徐々に望の真意がどこにあるのかを悩むようになっていくうちに、彼女たちの執事である剣持は二人の心労を案じ、二人を強引に転校させることを決意する。

そんな状態で迎えたバレンタイン、剣持によってお屋敷に幽閉されていた桜月姉妹が望にチョコレートを渡すために脱走したところ、ちょうど一条姉妹が揃って望に告白する瞬間を目撃してしまう。ショックを受けながらも望に再度告白をする桜月姉妹、二人を連れ帰る剣持によって伝えられる転校の事実、自分の優柔不断さが招いた現状に打ちひしがれる望……とこんなところで第12話が締められる。

いや、あと1話でこの状況はどうするんだよ……とまあまあ本気で頭を抱えてしまった。望は事実として本当に優柔不断だし八方美人だし、それはそれとして剣持は大人のエゴ剥き出しだし……。

そんな感じで頭を抱えたまま最終話を再生したら……まず望は打ちひしがれているところを下宿先のお母さんに、お前の優柔不断さは優しさではなく自分勝手なだけだとダメ出しされ、今できることはなんだと問われて「剣持に転校を取りやめるよう頼むことだ」と決意、自転車に飛び乗って桜月姉妹の元へ向かう。
この結論の出し方、なんか一瞬まあそうだねと流されそうになるのだが、実のところかなり不誠実じゃないかと僕は思う。そりゃ確かに桜月姉妹の転校を左右する力は今剣持という大人が掌握しているのだが、さっきまで彼が悩んでいたのは、桜月姉妹と一条姉妹の4人の少女から同時に想いを向けられた自分がどうすべきかということだったはずで、彼と少女たちの間に問題があったはずだ。ところが、これが彼と剣持(この二人の桜月姉妹に対する「優しさ」という名前のエゴの押し付けが共通項として描かれるのはうまかったと思う)の間の問題にすり替えられ、桜月姉妹が問題の景品になってしまったのではないか。

何はともあれ、桜月家にたどりついた望は丁度リムジンで外出する剣持と桜月姉妹を見かけ、自転車でリムジンを追いかける。自転車で必死に並走しながらリムジンに声をかける望の姿に桜月姉妹は悲鳴をあげ、剣持はアクセルを踏み引き離そうとするのだが……望は↑のような考えなので、「望君!」と声を上げる桜月姉妹には目もくれず、剣持が座る運転席の横につけ続ける。
このヒロインたちを無視した追いかけっこは望の自転車が横転したことで流石にやっていられなくなった剣持が車を止めることで終わるわけだが……そこに一条姉妹がかけつけ、剣持に対して冒頭に望が言われたのと同じようなダメ出しを叩きつけていく。それでも折れそうにない剣持だったが、そこに更にクラスメイトたちも駆けつけ、口々に桜月姉妹の転校をとりやめるように言っていく。最後には桜月姉妹も含めてその場にいる子供たち全員が剣持に頭を下げ、剣持も「お嬢様方には素晴らしいご友人ができていたのですね……」と言いながら転校届を破り捨てる。

そして時は流れ春、クラス全員が志望校に合格し、桜の下での打ち上げが開催される。その場で桜月姉妹と一条姉妹はお互いたちをライバルと認め、正々堂々やりましょうと朗らかに言葉を交わす。一方で、一条姉妹の片方を好きな男の幼馴染も望に声をかけ、俺はまだ諦めていないぞと言い笑いあう。望を取り巻く恋模様は以前、複層的な三角関係の真っただ中ーーー。

嘘だろ?! となった。結婚式に乱入してその結婚ちょっと待った~をする主人公は2023年現在でも毎クール(とまではいかないまでも毎年)登場するが、そんなリオっちたちだって、もう少しヒロイン個人と向き合っていたと思う。

というか、優也(男幼馴染)はもう少し怒った方がいい。お前が今笑いあっているそいつは、少なくとも4人の少女からはっきりと想いを伝えられている状態でなお結論を出さずにへらへら楽しそうにしている奴だぞ。一度喝を入れられて、平穏すら失いかけて、それでもなお結論を出さず、少女たちに「結論は高校に入ってからでいい」と言わせているのだぞ。ハーレムものラノベ主人公だって、たとえそれが「全員を大事にしたい」とかいう舐めた結論であったとしたって、なんらかの結論は出すに十分な出来事を経てなお、何も結論を出さないのは本当にすごいと思った。

確かに双恋というコンテンツ自体がそれを売りにしているだけあって、三角関係が本当にいたるところに登場する。主人公である望と1組の双子という関係だけを取り上げても当然三角関係だし、望、ヒロイン1人、そのヒロインのことが好きな男キャラ1人という形の三角関係もそうだ。
だが何よりも特筆すべきなのはやはりこの作品が最終話で見せた結論の三角関係が、望と一条姉妹と桜月姉妹という合計5人による三角関係を是としたことだ。(五角形ではなく三角形として描かれている。)

確かにこの少し退廃的だが幸福な、三角関係を是とする方針は、『フタコイ オルタナティブ』の方でも健在だった。だったのだが、それはあくまでも恋太郎と沙羅と双樹という三人の個人の間で、大きな痛みを伴う試行錯誤ののちに選び取った退廃さであったと思う。
1対1でつがいなんだという社会通念自体を創作の中でも絶対不可侵のものと思っているわけではまったくもってないが、その世界における社会通念である以上は、個人たちの意思によって背くことを選んでほしいと僕は思ってしまう。

双子キャラの扱い

僕自身この2004年から2023年の20年間を生き続けてきたからあまり意識していなかったが、思いのほか作品にあらわれる世間の価値観というのは変化してきているらしい。
今期のラブコメ作品を思い浮かべてみても、(特に恋愛の舞台に立つ)登場人物の数は絞られる傾向を強く感じるし、オンリーワンのヒロインとの関係を深掘りし、その他キャラクターとの関係はほどほどって作品の方がウケているという印象がある。(僕にウケているだけかもしれない。君ソム、おとなりに銀河、山田君、スキロー、グイグイ、公爵邸とか。)

もちろん、元気に転生先の異世界でハーレムを構築している伊勢須磨や転生貴族なんかもあるわけだが、そこはちゃんと(?)「異世界では重婚が認められている」というフォローが入っている。「ヒロイン多すぎラブコメ」だの「5人全員正ヒロイン」だの言っている女神のカフェテラスも、時流にあえて逆らっていることを公言している。

先ほど名前を挙げたが、伊勢須磨においても双子のヒロインが登場する。美少女動物園だの図鑑だの言われるハーレムものにおいて、「双子キャラ」というのは一つの定番属性だと言えるだろう。

今期アニメで考えても、伊勢須磨、ウマ娘(?)、まほよめあたりには双子キャラがいたなとパッと思い浮かぶ。今僕の目の前にある円盤棚を眺めてみると、双子キャラが出てくるアニメとしてははるかなレシーブ、スライム300、ひなろじ、はいふり、そしてつうかあなんかが目に留まる。

つうかあの双子回こと第7話「Side by Side」の話はいつだってしたいんだけれども、あのエピソードの特異なところは、宍戸姉妹が同じ男を好きになったが故に起こった悲劇と「”双子”ではない誰かになりたい」という感情を描きながら、二人が選び取った結論が再び二人の境界を曖昧にして、”双子”になることでレーシングニーラーに向き合うという結論にあった。

そう、双恋最終話で結果的に落ち着いた、双子が”双子”といういち個体として扱われることと同じ結論ともいえると思うのだけれども、何が違うかと言われると、それはキャラクター個人が選択したかどうかということになるのではないだろうか。

話を再び双恋に戻していくが、作中に複数組登場する双子たちがどの程度人格として分離して描かれているかには結構グラデーションがある。わかりやすい描写としては双子が声を重ねてセリフを言うシーンが挙げられるが、まだ小学生な雛菊姉妹や箱入りで世間知らずなお嬢様である桜月姉妹、人見知りな千草姉妹は登場時の動きや発言が重ねられることが多く、一方で成人済みの桃衣姉妹や性格が対称的であることが個性にもなっている白鐘姉妹はほとんどセリフを重ねなかった印象がある。
桜月姉妹と並んでアニメにおけるメインキャラクターに据えられていた一条姉妹はというと、序盤のコメディ色が強い頃にはセリフを重ねていた印象が強かったが、恋愛関係が複雑化していく中で、董子と薫子がお互いのことを羨ましく思っていたりだとか、好きな人が違う(ような外形をとる)ようになったりとか、そういう双子の分化が意識されていたと思う。

先述したような双子の重なり方の描き分けをみて、僕としては、本作の基本的な思想として「双子も個性のある二人の人間であり、幼いころの曖昧な輪郭はやがて大人になるにつれて明確に線引きされていく」という思想があるのかなと思っていた。
この思想自体は双子の話としては定番だし、そんなに間違ったことを言っているとも思わない。ところが、その思想が急に最終話になってうち捨てられ、何ら結論を出せない主人公の在り方そのままに、一度は輪郭を持ちかけていた桜月姉妹と一条姉妹は再び双子という個体に戻ってしまう。
そうなるに至る、彼女たちの選択が描かれているならば問題はない(つうかあはかなり意識してこの選択を描いてみせた)のだが、一条姉妹は同じ男のことが好きだとわかったうえで、どちらもその気持ちに正直になろうねという話を作中でしているのであり、作中での描写の流れは、別々の個人として、お互いを恋のライバル認定していたとみていた。

一方で桜月姉妹はというと、終盤になってから物事へのアプローチの積極性でゆらときらの間に差が芽生え始めていることが描写されていた。一条姉妹のようにお互いまでも恋のライバルと認定するには至っていなかったが、双子の分化は描かれていたように思う。

だから彼女たちからすれば、双子対双子のライバル関係なのではなく、4人の少女のライバル関係なんだとは思う。だが、それを画面として描くことができていただろうか? 二人ずつが並んだ会話のシーンは、文字で読んでも2対2の関係に感じてしまう。

薫子「ライバルだね、これから。」
きら「正々堂々とベストを尽くすことを誓います、なんてね。」
ゆら「負けないよ、董子ちゃん、薫子ちゃん。」
董子「こっちだって負けないよ、ゆらちゃん、きらちゃん。」

最後の最後で、これまで双子の個人にもよりそう視線があったカメラが、コンテンツとしての視線にまで遠ざかってしまったのではないか、そう感じてならない。

おわりに

色々書いたし最後についてはまだちょっと納得できていないが、最終話まで一気に視聴させるだけのパワーは感じたし、当時、僕もその時の価値観で視聴していれば全然違う印象を抱いたんじゃないかという気もする。

本当は、「お前は双恋のキャラクターで誰が一番好きなんだよ」みたいな修学旅行の夜をやりたかったんだが……なんでこんな真面目な文章になってしまったのだろうかと思わないでもない。

しかしこれでようやく双恋とフタコイをどちらも視聴することができた。こうなってくると、今度は今第14話まで視聴して止まってしまっているシスプリを完走しなくちゃな~みたいな気持ちになってきたね……。それはまたいずれ。

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