天元突破グレンラガン 螺巌篇について

まず最初に断っておきたいのは、劇場版の新解釈について最大限の理解と、尊重である。

否定する為の記事ではなく、あくまで私個人が気になる点、納得のいかない点を羅列する稚文であることをご理解願いたい。

分かりやすく例えるなら、すき家と吉野家の牛丼の違いについて語るようなもので、どちらも違って、どちらも良い。優劣をつけたいのではなく、あくまで一店舗一作品に対する個人の感想なのである。


天元突破グレンラガン

螺巌篇


今ちょうどリバイバル上映も盛り上がっている、超人気タイトルの新訳劇場版二部作のうち、二作目、完結編にあたる作品だ。


断りを入れた通り、素晴らしい出来だと思う。

当時最新の映像技術、新解釈、織り込まれた新カットの数々は、いちグレンラガン好きの私の気持ちを高揚させるには十二分以上の質量だった。


だが、私はあくまでテレビ版を推す。

というオブラートを破っていいのなら、劇場版は可能な限り否定したい。

劇場版を他人に勧めることはないだろう。あれはあくまでリブート、オマージュ、パロディ作品であると、声を大にして言いたいのだ、私は。


1.       内容の改変


番号を振ったが、一にも二にも、これに尽きる。

リブートなので、そりゃ当然のことなのだが。

企業も玩具を含めた様々な商業展開を行う必要があり、ちょっと結末が違う程度の総集編+@ではファンは納得しないのではないか、盛り上げつつも、経済も回るような、そうやって頭を捻った先に、本作が出来たのだろうと素人ながらに予想は出来るし、事実創造を上回るクオリティだとも言い切っておく。いい意味で。


だが、この作品は“禁忌”を犯している。私はそう断言したい。


それは何かといえば、テレビ版では死んでいたはずのキャラ、そのほとんどが生存しているからだ。


ありえない。


これは冒涜だと私はとらえている。

いや、全員生きてるしいいじゃん。何か? 誰か死なないと感情移入できない系? そう思われても仕様がないが、そういうことではないと答えておく。


なぜ“彼らは生きていてはいけないのか”について、羅列していく。


・カミナの死

これはテレビ版8話での出来事だ。ダイガンザンを墜とす為、レジスタンスもとい大グレン団は敵将チミルフに決死の作戦を実行する。

結果、カミナは戦死し、ダイガンザンは手中に収めた。ガンメン乗りに絞った計測に限れば、こちらの損耗1名に対して、敵大型母艦の鹵獲及び制御下に置き、敵本陣の位置座標も判明。更に衣食住の快適性も担保され、衛生面の観点でも多大な貢献だと言えるだろう。


ここで重要なのは、カミナは死ぬ必要があったのかどうか。

結論、死ぬ必要はない。

なぜなら、生きていた方がいいに決まっているからだ。カミナという属性という問題ではなく、一人の人間が敵によって殺されるという蛮行は、起こらない方が当然、理想的なのである。

だが、カミナは死んだ。

視聴者も、彼らと同じような喪失感に襲われたのではないだろうか。

え? だってカミナって主人公でしょ?

そう思う人だっていただろう。私もダブル主人公くらいの認識で、しばらくはカミナとシモンの友情パワーで万事解決だと、そう思っていた。

だが、カミナは彼らも、我々(私)も置き去りに、散った。


死ぬ必要のない人間が、死んだのだ。


そしてシモンはその失意に身を任せ、破滅の道を辿る。ロシウの制止など歯牙にもかけず、敵を見るなり悪即斬。口を開けば「アニキ(カミナ)ならこうする」の繰り返し。


正直見るに堪えないが、8話までの流れを見て、私もそうだが、多くの視聴者がシモンに同情し、そしてこの先どうなるのかと不安になったのではないか。


そこに現れたのが、獣人に捨てられた人間、ニアである。シモンはニアと心を通じ合わせ、人間として、一人の男として、ガンメン乗りとして成長していく。


シモンはニアと出会い、守るべきものを得、仲間を引っ張るリーダーとして成長し、螺旋王ロージェノムを打ち倒すに至る。


17か18話で(うろ覚えで申し訳ない)ロシウはシモンに言った。

「我々が勝てたのは、カミナが死んだおかげである」※意訳

それに対してシモンは激昂する。当然である。ロシウの言い方と、タイミングからすれば最悪で、逆鱗に触れたと言い切っていい。


だがロシウの言葉にはこの作品の本質が含まれている。


そう当初は、カミナはどうして死んでしまったのか。私も登場人物もそう思っていた。

しかしシモンの快進撃に心打たれ、ロージェノムとの肉弾戦ではやはりシモンを心から応援していた。勝て、勝ってくれと。

最後まで諦めず、結果としてシモンはあの場面でコアドリルを刺すことができた。


シモンがあそこで勝てたのは“なぜ”なのか。

カミナの弟分であった頃のシモンに、あれだけの大事は成せないと、私は言い切る。その前提があるから、この物語はシモンの成長物語でもあるから、(ナレーションが老後シモンの声優である点も考慮して)だからこそ、カミナの死によって、シモンが成長した。だからこそ勝利をつかんだと、そう理解しているし、したいのである。


ロシウは「結果だけ見れば、そうなる」とも付け加えた。

カミナが死に、ニアと出会い、成長し、強敵を打ち倒した。


カミナが死んだおかげで、とは彼も思っていないはずなのだ。ただ、彼が死んだことによって未来が変わった。それをバタフライエフェクトの始まりと考えたとき、彼の死は必然としてとらえるべきかもしれないという解釈になるのだ。


ロシウが言いたいのは、

「時を巻き戻してカミナの死を回避する未来を選択できたとして、今と同じ未来にたどり着けるのかどうか」

ということも含まれるのではないだろうか。

そういう意味で言えば、人類が地上に出て、文明を再度築き、衛生面がしっかり整った病院で新たな命を祝福できる今の状態に、もしカミナが生きていたままでもたどり着けるのだとしたら、カミナが死んだ意味はなく、生きているべきだと言い切れるだろう。

だが、現実は、結果はそうではないのである。

あの時カミナが生きていたとして、恐らく今と違う未来が訪れているはずである。

そしてそれは、果たして大衆を今より“幸せ”だと認識させるに足るものだったろうか。

答えなど、誰にも分からない。ただ、今ある幸せを奪う可能性もある以上、やはりカミナは死ぬべきであり、死んでくれたおかげという表現が出来るのである。


だからこそ、言葉を選べなかったロシウは、そういう言い方しかできなかったのだ。


そしてロシウの言葉にこそ、グレンラガンの本質が詰まっていると考える。

変えられない過去を乗り越えること、受け入れることで、人は成長し、前に進むことが出来る。

それが、ドリルなのだ。


シモンのドリルが逆回転したことは、劇中でただ一度、ダイガンドを逆回転させた時のみ。しかし、その時ですら、彼のドリルは天を目指し、明日への道を切り開いていた。


そのドリルが、逆転して“後退”したことがあっただろうか。

無いはずである。

1話時点でシモンは掘って戻り、掘って戻りではなく、ひたすらに掘り進めるように描写されている。だからこそ危険な目にもあったし、取り返しのつかない事態に巻き込まれたこともある。

それでも、前進し続ける、コツコツ前に進み続けるシモンの背中に、カミナもまた感化されたのだ。

そう、シモンのドリルに後退の二文字はない。

それこそがこの物語の根幹だと、私は信じている。


脱線したが、その後も物語は続き、アンチスパイラルとの決戦は部隊を銀河規模にまで広げていく。


そして次々と散っていく、大グレン団のメンバー達。


私は泣くのを我慢して観ていた記憶がある。見知った仲間が、未来を託すために敵を引き付け、次の世代のために自己を犠牲にし、可能性を守る為に特攻した。

男だろうと女だろうと、誰もが彼らのように誇り高く生きたいと、一瞬でもそう思ってくれたらファンとしてもうれしい。


そしてキタンの死で、私の涙腺も死んだ。

縁の下の力持ち、カミナやシモンの無茶を支え続けた男の死である。


誰でもシモンになれるという希望、そしてアンチスパイラルの謳う破滅、そのどちらも示唆するという重要な役割を持った彼は、死んでもよかったのかどうか。


アンチスパイラルの多元宇宙迷宮に飲まれた際に、カミナやキタン、散っていった大グレン団のメンバーがシモンの背中を押す。


迷宮を突破し、ついにアンチスパイラルとの最終決戦。大グレン団全員がコアドリルとなり、グレンラガン、アークグレンラガン、超銀河グレンラガン……そして、天元突破グレンラガンへと進化する。


ここにきて、タイトル回収きたああああああああああああ!!


という興奮は置いておき、アンチスパイラルも当然のように“同等の地平”で戦えるように、身体を作って立ちはだかる。


アンチスパイラルはシモンと真逆の存在といえるだろうか。

知りすぎた、見すぎた存在とも言い換えられるだろうか。

人間の好奇心、善悪を抜きにした“欲”を螺旋力と言い換え、希望の先にある絶望を回避する為に、螺旋力は封じなければならないという意志を持つ。


言ってしまえば宇宙や次元の管理者であり、当然、世界の管理者であるアンチスパイラル相手に挑む大グレン団は苦戦を強いられる。チートし放題の開発者にゲームで挑むようなものだが、“彼らがこれで終わるはずがない”。


最終話に主題歌を流すアニメは神。

異論は一切認めない。


ロージェノムがラゼンガンでビックバンインフィニティストームを受け止めるが、当然耐久は足りず、娘との言葉をいくつか交わし、量子分解してしまう……かと思えばただでは転ばないロージェノムはそのエネルギーを全て奪い去り、螺旋力の塊“ドリル”として、天元突破グレンラガンに突っ込むのだ。


そして互角の力を手に入れたシモンは、更に自らの螺旋力を上乗せして(という解釈)、アンチスパイラルと最後の攻防に。

折られてもドリルを作りだし何度も衝突し、何度もドリルが折れ……ない!


まさに激熱のバトルを繰り広げ、集大成とも言えるセリフ。



このドリルは、この宇宙に風穴を開ける。


その穴は、後から続く者の道となる。


倒れていった者の願いと


後から続く者の希望


二つの想いを、二重螺旋に織り込んで、明日へと続く道を掘る!


それが、天元突破


それがグレンラガン


俺のドリルは、天を創るドリルだ!



そしてラストまで……

空色デイズと合わせて、最高のラストバトルでした。


そして先の口上は、前述したロシウの言葉、カミナが死んだおかげで勝てたという意訳を、シモンが真に理解したことの裏付けでもあると考えています。


その後の結婚式でダリーが消滅したニアや、死んだ仲間を思ってこう口にします。

「だったら、螺旋の力を使えばいい」

アンチスパイラルが螺旋力を利用してニアという命を作り出したように、シモンもまた、創造主として命に干渉してしまえばいいという、かなり危険な発言なのですが、シモンはそれをしっかりと諭します。

「後から続く連中の邪魔になるだけだ」

これは皮肉で、実際に邪魔かどうかは別として、変えられない過去を乗り越えた結果、その場にいた全員が成長し、未来を創ることが出来るのだと、シモンはそう伝えたかったのだと信じたい。

更に加えるなら、シモンはアンチスパイラルと同等かそれ以上の存在になったのだと考えています。

リーロンが「シモンは神じゃない」とも諭しますが、実際シモンにはそういったことができたんじゃないかと。

だから、ギミーにコアドリルを託したのではないでしょうか。

自身が至った境地に、他の人間も追いつく。そうでなければ外宇宙への進出など叶わないだろうと。

人の理から外れたシモンは生や死という概念も超越できたのではないでしょうか。ですが永遠の命や、管理者として生きるより、語り部として、そして後から続く者たちの邪魔にならない程度に手伝う存在として、身を引いたのではないでしょうか。



ここまで!

読めば!

死んだはずの人間が復活したことは絶対のタブーだと理解いただける……と信じたい。


「いや、リブートって考えれば別解釈だし、死ぬはずだったストーリーとは別のストーリーなんだから、死人が蘇ったというより別の世界線の話だろw」


それは一つ、その通りだと思います。

ですが、それを認めてしまうことは、テレビ版の世界線を否定することになります。


ギミーがこぼした

“螺旋力を使えばいい……”

別解釈を生み出すということは、螺旋力を使って“その禁忌を犯した”と解釈しています、私は。


世界は二重螺旋なんです。

カミナの死を乗り越え、仲間の死を受け入れてでも前に進むシモンが出した答えなんです。

倒れていった者の願いと

後から続く者の希望

二つの想いが宇宙を作っていくのです。


この作品の肝はカミナの死なんです。

永遠にそこから逃れることはできない。

彼が死んだから成功したのか、つまりそれは死ぬ必要があったのか、“カミナの死”とは彼らにとってなんだったのか。

それを示したのです。最後に。あのシモンが。



そのラストを踏まえて、螺巌篇では不穏な空気が私の中で流れていました。


キタンだけが死に、願う側のポジションに移行します。

他の奴らはどうした!!!


別に死を願っているわけではありません。

死ななければ面白くないとかそういう低次元の話ではありません。


別解釈が嫌なら見なくていい、その通りです。

私は消費者ですから、供給されたコンテンツをありがたくいただくのみです。


ですが、これだけは言いたい。

テレビ版での彼らの覚悟と、願いを、劇場版は踏みにじったのです。


いや熱い展開ですよ。死亡フラグを回避して、天元突破を超える力まで進むさまは流石ガイナックス、流石TRIGGER、流石グレンラガン。

でも違うんです。

結果として必要であった死が無く、敵を蹴散らしていくのはご都合主義の世界だけでおなか一杯です。


もちろん劇場版は素晴らしい出来だと思いますし、単純にエンタメとして楽しむならカミナとキタン以外の味方陣営は死なないので、不安にならずに観れるでしょう。


ですが、変えられない過去を乗り越えた”彼ら”のことを考えると、どうしても気持ちよく呑み込めない自分もいるのです。

駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

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