見出し画像

1904-7-22 『早池峯山採集日記』 飯柴永吉先生



科学誌『理学學』への寄稿

「理學界」という明治38年8月5日発行の理学雑誌(一部15銭)に、早池峰山の紀行文があります。読みやすい文章に意訳してみました。

寄稿者である飯柴永吉先生は、明治6年に三重県で生まれ、私の母校、東北学院(当時の中学)で明治36年から33年間教鞭を執られた方です。

以下の紀行文は1904年、先生が31歳のときのものと思われます。


早池峯山採集日記

飯柴永吉

早池峰山は岩手県盛岡市の京都方面(方角を表すのに「京方」という言葉を使っていました)に立つ北上山脈中の主峰にして高さ2000mあり、昨夏友人と共に採集に訪れました。

その要点をまとめた日記が、幸いにして8月のこの雑誌に掲載されることになりました。未だこの地を踏破したことのない方への案内になるものと思います。

    7月22日 雨

午前5時30分 仙台発、日詰駅(岩手県の紫波町ですね)に下車、大迫に向かいます。その間15km。一つ前の石鳥谷駅(明治26年開通)からであれば11kmだと言われましたが、途中雨で落橋(北上川に掛かる橋?)の恐れがあるということで、わざわざ遠回りすることにしました。

平坦な道を乗り物(馬車か?)に乗って移動している途中、堆積岩の露出や、雀澤の金坑(日詰で降りているので、雀坂と百澤の金山と思われます)ありました。

途中から徒歩で午後2時40分大迫に着きました。

    7月23日 雨

天気は寒いくらいで回復の見込みはありません。こんなはずではなかったのですが。雨の中、午前10時に出発して午後2時30分に山麓の岳に着き、民家に頼み込んで一泊させてもらいました。

(この地区は早池峯神社の参拝客を泊めている宿坊があります。先生は修験者ではないので、泊めてもらえ無かったのでしょう。現在の宿坊は、どなたでも泊まれます)

ここから先は20kmの峠道です。

    7月24日 雨

強力(荷役や道案内をするシェルパのような男)を一人雇い、登山を始めます。樹木が鬱蒼として昼なお暗い。雨の中を登ります。

楓やブナ科の樹木や、玉川ホトトギス、トチバニンジン、モミジカラマツ、ユキザサ、ホテイラン、ミヤマノキシノブ、センジュセンノウ、オヤマソバ、ミソガハサワ、ナンバンハコベ等を確認できました。

次第に樹木は矮小となり、山頂近くでは岩石峩々(がんせきがが)として、その間にムシトリスミレ、百里香、ナンブトラノオ、ホソバシラネニンジン、コバノツメクサ、シロバナコメツツジ、ハイマツ、タカネウスユキソウ、ヒメコザクラ、チシマアヤナ、コトンボソウ、タカネサギソウ、グンナイフウロ、イワワタザボ、コケスギラン、コケモ(コケモモと思われる)等がありました。

そのなかでもヒメコザクラやコケスギランは、他に見られないと聞きます。

山頂には建物があって、休息できます。ここで一休みして岳に戻りました。

    7月25日 大雨

    7月26日 晴

午前8時に出発して鶏頭山を目指します。早池峰山の並びにありますが高さは遥かに及ばずといえども、傾斜は頗(すこぶ)る急であります。

身長より高い竹林をかき分ける中で、ユウレイタケ、アリドホシランが多く見られました。

林の中では、マメザクラ、イワキンバイ、タカネイバラを見られました。

頂上ではハイマツ帯がありますが、岩手県のような広大さ(広大さを表現する意味か)は無く、またモミの木も多い。ベニバナドウダン、コイチエウラン、ヒメイチゲ?等があり、その他は早池峰山に同じ。ただしムシトリスミレや部内フウロ(ハクサンフウロか?)は見られませんでした。

    7月27日 風雨

午前に岳を後にして、徒歩で大迫まで行き、人力車で日詰まで戻ります。午後7時1分の列車で仙台へ戻りました。

    附 岩手山採集順路

早池峰山で遊んで日数に余裕があれば、岩手山に登って帰るべきです。(中略)。網張温泉に一泊して、翌朝案内を雇って登山するのがいいでしょう。

採るべきものは次の通り。
(草木の名前が列記される)

※カッコ内は私の予想やコメントです。


最強の植物採取調査団

明治38年は1905年ですので、高山植物の研究が活発になった辺りでしょう。

1903年、1905年にはあの牧野富太郎が入山して植物学雑誌で発表しました。

牧野富太郎が入山した、というか、元々は子爵である加藤泰秋の呼びかけにより、植物学者として右に出るものはいない牧野富太郎が招集されたのでした。助手として田中貢一が同行します。

しかし、岩手県の早池峰山は『陸中の高山で、珍しい花がたくさん有る』としか情報がないため、現地の案内役として盛岡高等農林学校の山田玄太郎にご指名が下ります。山田は、野山に詳しい同学校の沢田兼吉も同行させました。

華族である加藤泰秋らの嗜みとして、珍しい花を自身の庭に植えて、それを仲間で愛でて楽しんでおりました。

藩主も務め、天皇の侍従として仕えた彼のフロンティアシップは隠居後も衰えること無く、大胆な行動力と資金で、早池峰山への植物採集の『最強の』調査団を結成します。1905年8月の事でした。


宿坊か民泊か

当時は、早池峰山に訪れるには盛岡から門真(かどま)にアクセスするのが一般的でしたが、飯柴永吉先生は岳からアクセスしています。牧野富太郎のプランを知っていて、あえて岳を選んだのか?

今でこそ岳の宿坊には一般客も宿泊出来ますが、当時はどうだったんでしょう。先生の日記によれば『頼み込んで民家に泊めてもらう』とあります通り、修験者以外は宿泊出来なかったのでしょう。

地域の人達も、このような学者先生が来るなんて、想像もしてなかった事でしょう。『神聖な山で採取など!まかりならん!』と訝しむ方も、いたかも知れません。

牧野富太郎への対抗意識があったか不明ですが、その後の成果として、飯柴永吉先生は東北各地の山の植物を調査し発表されています。


園芸の友か理學界か 

植物採集の成果を発表するのも、一苦労です。植物を乾燥させて持ち運び、それが如何なるものか調査する必要があります。

牧野富太郎の場合は『園芸の友』で123種もの植物を発表とありますから、少なくとも123種の標本を持ち歩いたことになります。

一方で飯柴永吉先生は、『理學界』という雑誌で『旅してきたよ』と日記を寄稿したのみ。植物採集の発表はこれより後になりますが、理學界という明治維新後に始まった近代化を詠う異色の月刊誌に自然紀行を寄せた背景が気になりました。

牧野富太郎と何かあったのかな?なんて邪推しますが、人間関係はまったくの不明です。


不運の6日間と貴重な記録

飯柴永吉先生が不運だったのは、6日間ほとんど雨だったことでしょうか。

しかしこの紀行文からは、鉄道だったり、移動手段だったり、早池峰山周辺の宿坊の様子だったり、文化風俗が目に浮かぶ点で良いと思いました。

先生は100年以上も後世で、noteでご自身の事が書かれるなんて予測してないと思いますが。

石鳥谷の大正橋は、明治26年に石鳥谷駅が開通して渡し(北上川を渡る渡し船)の利用者が急増したことから、橋の設置が優先され大正元年に木造の橋が完成したものです。現在は鉄筋の橋になりました。

飯柴永吉先生の著作や研究成果を見れば、最初はフローラ(お花畑)、1930年代以降は苔の研究で大きな成果を挙げられています。

苔については『草分け』と呼ばれるほどに功績を残されました。


岩石峩々

最後に、飯柴永吉先生が表現された、『がんせきがが』って表現。早池峰山にピッタリですごく分かる!って感じました😀

以下、『理學界』のスナップです。当時の日本の勢いが偲ばれますね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?