解放の後で 二通目 β

2020年6月15日 

松原さんへ

 お返事が遅れてしまい申し訳ありません。
 「つぎの投稿者にはぜひこの3ヶ月どのように過ごしたのかをしたためてほしい。そしてそのときあなたはなにを読み、なにを思い、これからなにを読み、なにをしたいのかを訊いてみたい。」とのことでした。こういった形式の文章を書くことに不慣れなので、松原さんの問いかけに即して書き進めていきたいと思います。加えて申し上げますが、戦前戦後あたりの日本文学をよく読んでいた影響か、一文が長くなってしまうきらいがあるかもしれませんので、読みにくくなってしまうかもしれません。ただ、自分の思っていることを書く上で、文章表現が下手なのも理由の一つとして大きいと思いますが、構成上どうしてもそうなってしまうのでご容赦いただけると幸いです。


 この3ヶ月で何を読んだか振り返ってみると、ほとんどが再読にあたるものばかりで、新たに読んだ本は1冊しかありませんでした。というのも、外出しても徒歩圏内のスーパーやコンビニまでといった生活で、大学の情報誌を買いに行ったとき以外には、新たな本に触れる機会がなかったためです。
 そういったわけで、家にある本をただ気の向くままに読むというような自堕落な生活を送っていたわけですが、私の家にも少しはいわゆる積読がありまして、それをこの期間に消化できたかといえば、最初に言いましたようにそういったわけでもありません。一度読んだ本ばかりを読んでいました。
 まず僕がこの3ヶ月で読んだ本を整理しておきます。

H.D.ソロー「森の生活」
トマス・モア「ユートピア」
オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」
江國香織「きらきらひかる」「犬とハモニカ」
ドストエフスキー「地下室の手記」
村上春樹「ノルウェイの森」
漢 a.k.a GAMI「ヒップホップ・ドリーム」
D.O「悪党の詩」(これのみ再読ではない)

 他の方々がどれくらい読むのかは正直なところわかりませんが、ほとんどが再読であることを鑑みたら少ないようにも思えます。ずっと家に籠もっていてやることがなかったはずではありますが、こう列挙して見てみるともう一度読むのが容易い再読の本ばかりで、ますますこの3ヶ月で何をしていたのかわからなくなり、なんとなく情けない気分にもなります。
 ただ、狭い部屋にわざわざ鎮座されている本からこれらを選んで読んだのにも理由がないとは言えない事情がありまして、というのも、松原さんが言っていた「世界が変わろうと変わるまいと私たちが生きることあるいは死ぬことには変わりはない」ということに関係することで思うところがあったわけです。この書簡を書いているうちに、自分でも何が何だかわからなくなってしまいそうなので先に書いておきますが、子を産むことに関して、それと、その前段階にあたる男性と女性の間に存在する(かもしれない)恋愛感情(と便宜的に言葉で置き換えられているもの)について考え、その上で私が何を考えたのか書き連ねたいと思っています。
 自粛期間が始まった頃なのかその前なのかはしっかりと覚えていませんが、知人と話している際に、恋愛関係の間には相互的に「恋愛感情」が成り立っているはずだ(またはそうであるべきであり、それがなければその関係は成り立っていないに等しい)という話を聞き、実際にそうであるのか、またその恋愛感情とは何であるのか考える機会がありました。そこで、あまりによくわからないことが多かったため、恋愛に関する小説や、死生または生き方に関する本をもう一度読もうと思い、先程列挙したような本を読むに至りました。
 子を産むことに関して考えるならば、まず雌雄について考えなければなりません。人間という生物になぜ雌雄があるのかという疑問に対して、雄同士で競わせることによってより優れた遺伝子を残すためであるという一説があります。子を成すということは、優れた遺伝子を持つ子を産みたいという生物的な本能によるものであるというわけです。そういった単純な種という視点から考えるならば、雌側はより優れた雄を求めるようになっており、雄側は自分が他より優れた雄であると示すようになっているはずです。ということであれば、女性は相手にあたる男性を優れていると思い、男性は女性に自分は優れていると思わせることが、関係の間にあるものになるはずです。しかし、当然ながら男性と女性の間にのみ恋愛感情が存在するわけではありませんので、根本的に間違っていると言えます。
 「きらきらひかる」では同性愛者の夫と、その夫が社会的な体裁を気にしたために結婚したアルコール中毒の妻との関係を描いています。この小説にこう書いてあるからこうである、と主張するわけではありませんが、それを触媒として実際の社会にあることを考えた結果として、種として云々言うことには無理があると考えたわけです。 

 話が逸れてしまったので、まず、なぜ子を成したいと思うのか、という問題に取り掛かります。
 なぜ子を成したいのか、それは死にたくないという気持ちから生まれる欲求であると考えました。

——こののち、何をもって恋愛感情とするのか、何をもって子を成したいかの逡巡があったが、あまりにまとまらなかったがために書き起こすことが不可能だった——

 ソローの「森の生活」を読みました。その終盤には、ウィリアムハミントンの詩が引用されています。

 「汝の視力を内部に向けよ。やがてそこには、
  未だ発見されざる、千もの領域が見つかるだろう。
  その世界を経巡り、身近な宇宙地理学の
  最高権威者となれ」

 ソローは、何よりも内的世界の探究が重要だと主張しました。そして彼は、外在する規範や慣習、つまり自らを拘束するものを疑うことなく、それらに囲われた中で生きることを否定しました。はたして、自粛期間を終えて社会へと戻っていくことは解放と呼べるのでしょうか。こう言うと、社会へ戻ることを悪としているように聞こえますが、そうではありません。社会に属することが、生活する、食べてねぐらを得るために必要な手段の一つであることは疑いようがありません。私が話したいのは、社会ではなく、我々を拘束するものの話です。我々が家にいることを強いられているのか、それとも外に出られるのかに関わらず、我々を拘束するものは存在します。つまり、コロナによって家に押しとどめられていた問題が解決され、外に出られるようになったところで、それは囲われた範疇での移住に過ぎず、解放されたとは言えないのではないか、ということです。
 また、ソローはこう述べています。

 私は拘束されない状態で語り合いたいのだ。(中略)未来とか可能性という見地からすれば、我々は前途にゆとりを持たせ、限界を設けずに生きるようにし、その方面の輪郭はあいまいにしておくべきである。

 内的世界、さらには外的世界においても、あまりにも多くの「よくわからない」ことが多く、不確定な事柄に満ちています。そんな中で、現在というものがわかっていない私にとって、未来というものは関知できるものではありません。私ができることと言えば、過去を紐解き、現在を知ることです。だからこそ私は、不確定なこれからにおいて、内的世界の構成物に目を向け、ときには巨人の肩の上に立ち、囲われた思考の外側へと探検していくのだと思います。書物、またはそれにあたらない何かとの対話を触媒とし、化学反応を起こして自らを変質させていくのだと思います。

 読んだ本について書こうと思っていましたが、結果としてあまり関係のない話になってしまいました。自分の思ったことを思うがままに書いたところ、結果としてまとまらないままの文章になってしまいましたが、ご容赦ください。
 先日勢いに任せて購入したロラン・バルト「恋愛のディスクール」が届きました。まずはそれでも読んでみようと思います。
 締め切りに遅れてしまい、申し訳ありませんでした。質問は特にありませんが、松原さんが聞いていたことに私も興味がありますので、次の方は答えていただけると幸いです。 

↑B

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?