『武道論 これからの心身の構え』をよんで

今回、私たちのグループで読んだ本は『武道論 これからの心身の構え』です。

長い間、武道をやっていたのもあり、共感できるところがあったりといろいろ面白かったです。

この本を読みながら思ったことを載せていこうと思います。

市民というのは、共同体成員として共同体の統合原理や制度設計についての「知識を持ち」、かつ実際にその共同体に生身を置いて暮らしている者のことである。「共同体はどうあるべきか」という理念のレベルと、「明日の米びつ」という生活実感の両方に属しているもののことである。

この両面を持つことで、社会的にする必要があることについて政治的正しさとそれの責任を実際に受けるという間で物事を見ることができる。そういうので、自分が嫌なことを他人にしないといったことが成立するのだろう。現在教育研究部で『学問としての教育学』という本を読んでいる。この中に自由の相互承認という、自分の自由のためには相手の自由も尊重しなければならず、まずは、お互い自由を求める存在であることを認めることが大切だという内容がある。まさにそのようなことが書かれているので、個人的にそうだよなとなった。立ち位置がそもそもそうであるため、公共と相性が抜群にいいのだろう。最近、地域と学校というのがよく出てくるのにも納得がいく。

私が経験的に言えるのは、身体的なパフォーマンスを高めるというのは局所的に筋肉を強めたり、心肺機能を上げたり、あるいは「闘争心」を掻き立てるというような操作には限定されないということである。そうではなくて、心身のパフォーマンスが爆発的に開花するというのは、外部にある強大な力、誤解を恐れずに言えば、超越的な力が正しく調えられた身体を経由して発動するということである。人間の身体はその時ある種の超越的な力の通路になる。人間が発揮することのできる最も大きな力は人間の中に起源を持たない。

今思い返すと空手をやっているとき、部分的に鍛えたことはなかった。稽古は基本的に毎回決まった通りに行うだけだった。それを繰り返していくうちに体が覚え、気づいたら強くなっていた。空手においてだが、そもそもどこかに力を込めて当てようというようなことはしなかった。拳で突くと決めたら体全体がそれに向かって自動的に連携して動くというものだった。これがおそらく人間の中に起源を持たないということなんだろう。

「天下無敵」とは「天下に敵なし」ということである。「敵がいない」というのは「いたけれど、排除した」ということではない。「そもそも、いない」ということである。

「無敵」に至るには前段がある。それは「敵」という概念の改鋳である。「敵」を再定義する。まずはそこから話が始まる。

「天下無敵」への道の第一歩は「そんなことを言ったら、世の中はほとんどが敵だらけじゃないか」と言ってあきれ返ることである。

私の可動域を制約し、私の自由を損ない、私の動線を塞ぐものをことごとく「敵」と再定義するならば、そこにはフィールド上で向き合うライバルだけでなく、インフルエンザウイルスも、扶養家族も含まれる。そして、それらの多くは工夫次第で「敵性解除」できる。

これが武道が目指すものだと書かれている。稽古も最初はぎこちない状態でする。繰り返すうちに動けるようになっていく。そうやって体で覚えたことを外に出していく。やっていた時は全く意識していなかったが、こうやって読んで改めて考えることで道というのが何なのかが少しわかってきた気がする。

敬意表現の「型」は人類史の遠い過去から伝えられてきたものである。それをしたら、「禍々しいもの」をそっと押し戻すことができて、ことなきを得たという実際の成功体験の積み重ねが「型」になったのである。だから、「型」を軽んじてはいけない。

稽古の話になるが、さっきも書いたように稽古でやることは基本的にルーティーン化されている。ルーティン化の効果として、違いにすぐ気づけるというものがある。これに加えて禍々しいものを押し戻すことによる体の調いで自身の成長が感じやすくなっているのかもしれない。すべてが無敵へとつながっていくところに道という部分が出ていると読み進めれば進めるほど驚かされる。

残心があると、その前の動きに違いが出るということがだんだんわかってきた。

私たちは武道の技術的目標として「時間の中を行き来すること」を掲げる。

これはあえてだが、この本自体が残心だったりするので、本を読み進めること自体が稽古だなと感じ面白いと思ったという感想を残したい。ぜひ読んで体験してみてほしい。話は変わるが、所長の話も様々なものを見ることによってなるほどとなるので道というのはそういうことかとなることがある。


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