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データ駆動はイズムの問題

コロナ対策分科会の尾身会長の扱われ方を見ていると心が痛くなる。ただでさえ流動的な現場で正確なデータを集めて統計のプロ集団が出した渾身の結論が「なんとなく違う気がする」という気まぐれで無力化される、まさに科学の敗退ともいうべき惨状が繰り広げられている。

しかしデータが間違ってしまうこともある。実際に尾身会長が強く反対していたオリンピックが開催され、その杜撰な感染症対策にも関わらず五輪は感染者数に影響しなかったというデータが出た。データを信じるならこの結果にも真摯に向き合わなければならない。

それより私が懸念するのは日本の大企業で尾身会長のような立場に立たされている人の処遇だ。懸命にデータを集めて整理しても経験的な判断をする人にデータの結論が負けてしまう。

実際にこうしたempiricalな判断がデータに勝るという結果は特に企業経営では顕著だ。なぜなら経営の成果は人的リソースや市場の変化など多様なパラメータによって決定される、いわば一回一回が再現性の効かない一発勝負だからだ。ビジネス書をいくら読んでも経営が上手くならないのは確率論を勉強したところでサイコロの目を一発で当てられないのと同じだ。

その結果、短期ではデータ駆動の経営と経験駆動の経営は実力伯仲する。まして試しに作ったデータチームが一年目に成果をあげるなんてことほとんどない。転職まで5年と考えると各個人が観測するデータ主義の実力とは世間で言われている理知的なイメージとはかけ離れている。

なのでデータ駆動はイズムの問題だ。どちらでも成功が保証されないなら実力主義の会社では「データを見て判断しよう」というのは世間知らずのガリ勉くんの戯言でしかない。だって見た目の効果が弱いから。かといって経験則で判断しても成功率は同等だ。しかし経験則で判断すれば決めたのは自分なのだから失敗しても納得できるという人もいるだろう。

ただ一つデータ駆動と経験則が違うのはデータによる判断なら技術移転が可能なことだ。人材の流動性が低い日本の企業では経験則が一部の人に溜まってしまっても問題がない。しかし3年で転職することが前提の社会では経験則で判断する習慣がついてしまうと誰かの判断力を次の世代に引き継ぐことができないという技術移転の問題が生じる。

社会全体がデータ駆動にシフトしようとしているのは人材の流動化による経験則の無力化が遠因になっている。データ駆動の会社はデータを扱う人が変わっても同じように判断ができるし失敗が避けられる。しかし個人の経験則で仕事を回す会社ではそれができない。

というわけでこれからの人材流動化の時代ではデータ駆動で仕事ができるかが企業の問題になる。個人の経験則を会社のアセットにする時代はとうの昔に終わっている。

🐈❤️