春日一番が彼らを許してしまったから(龍が如く8 春日一番についての覚書)


はじめに


龍が如くシリーズ・龍が如く8本編の重大なネタバレを含みます。
筆者は龍が如く0〜8をクリア済み、8のハードモードプレイ中となります。内容について記憶違いがある可能性があります。
プラスだけでなくマイナスの感情を含みます。
本文章は龍が如く8未クリアの方の閲覧を推奨しません。
筆者は龍が如くが大好きです
 

春日一番についての覚書


 こんばんは、みなさん龍が如く8楽しんでらっしゃいますでしょうか。
過去最大規模ともいえるボリュームで筆者は1周目クリアに100時間以上を要し、そのため本編の内容をうまく腹落ちさせられず2周目に突入しているところです。
 すべてを納得してからストーリーやシステムについてひとつひとつ感想を書きたいなと思っていたのですが、十年後とかになってしまう可能性を危惧したこと、また思考の途中経過も後に大事になるかも?と思い、今回筆を取りました。
 
 筆者がプレイ後から繰り返し考えていること、それは「春日一番の精神性」についてです。多くのプレイヤーの記憶に刻まれたであろうラストの英二を背負い、大衆にゴミを投げつけられながら警察署に向かうシーンに代表されるように、春日一番は今作であらゆるものを許します。出会ったほとんどすべての人にフレンドリーに接し、助けが必要とあれば手を差し伸べ、まさにハワイの雨ニモマケズといった聖人となっています。物語の主人公の勇者として相応しいと言えるでしょう。
 
 ただ、筆者は長く桐生一馬としてゲームをプレイしました。それは昨年11月に発売された龍が如く7外伝名を消した男でも例外ではなく、赤目ちゃんも鶴野も、獅子堂くんも、娘息子くらいの気持ちになっています。(筆者は日常生活に支障をきたす程度には主人公に感情移入するタイプです)
 
 そして今作龍が如く8では大道寺一派のエージェントとして桐生一馬のサポートをする彼のことも…
 
いや、花輪、死んじゃったじゃん…。
 
しかも、英二が呼んだせいで、チーちゃんがそれを止めるのが遅かったせいで、花輪、死んじゃったじゃん…。
 
7外伝をプレイされた方々はここで皆ショックで体調を崩されたのではないでしょうか。筆者は30秒ほどうそうそうそうそと連呼しつづけました。
ウォン・トーと同じノリで、名前もないようなモブに、銃で撃たれて最期の言葉もなく、死んじゃったじゃん…。
 
 英二を許そうとしても、その小骨が自分に刺さって取れないのです。当時はチーちゃんも「え、俺らこれからも仲間としてやってくの?マジ?」ってなっちゃいました。でも春日一番は、彼らのことを許したんです。まあ春日と花輪はそんなに関係値がないからかもしれない。ラストシーンで泣きながらも心のどこかで筆者は「あのとき撃たれたのが花輪じゃなくて足立さんだったら、一番は英二を背負えたかな?」と思ってしまったのです。
 
 筆者は、キャラクターのヘイト管理というのが物語において近年かなり重要になってきていると感じています。後々仲間になるようなキャラに決定的な過去の罪があると視聴者側にモヤモヤが残る、的な。(改心してもヒロアカの爆豪くんのいじめやエンデヴァーのやってることやべーだろみたいな話です)
 
 しかし、「龍が如く8」はヘイト管理に失敗した、と言いたいわけではありません。むしろ、プレイヤーに「春日一番は許したぞ」と表明することにより、そこから「お前らはどうする?」と問いかける構造にしているのかなと感じました。現に筆者はずっとずっとずっと考えています。
 
 ここで最初に提示した「春日一番の精神性」について話を戻させていただきます。メタ的に片付けると「まあ彼は人間力がMAXだからね!なんでも許せる聖人さ」で終わらせることができるのですが、彼の行動原理が何であるか、考えていきます。
 
それはもちろん荒川真澄でしょう。本編でも明確に「荒川真澄の意志を継ぐ」、それが彼の目的であることが示されていました。それは元極道の救済というだけでなく、「見知らぬガキのために小指を失える」ということも含めてです。言ってしまえば、春日一番の信仰する教義が「荒川真澄のように、見知らぬ他人を救うこと」なわけです。少し話が逸れますが、「もらったものを返す」「やったことは自分に返ってくる」が龍が如く(またジャッジアイズシリーズ)全体に共通するテーマなのかもな、と感じます。
 
 今作ではパレカナという宗教団体が登場します。我々プレイヤーは主人公パーティを阻む敵として洗脳された信者を何人も倒します。皆様おわかりであるとは思いますが、宗教が悪!ということを伝えたいわけではないですね。(たまには教祖が悪の親玉じゃないパターンもあるのかな?とちょっと期待はしましたが笑)
龍が如く0で真島の兄さんがムナンチョヘペトナス教に潜入したときも「教徒が宗教を信じることは別にいいと思っていたが、何十万もフセリンチョをするのは騙されている」とおっしゃってました。筆者も概ね同じ考えです。宗教という過程ではなく、結果として本人や周りが幸せになるのであれば、好きにすればいいと思います。作中のパレカナの教え自体も「困っている人に優しくしよう」「火を大事にしよう」など、別に守って誰が困るようなこともないです。なによりフードバンクや養護施設のように人のためになっていて、そして茜さんが救われたのはパレカナの教えあってのことです。ひとりひとりが教義を守り生きていくことを洗脳とは呼びません。
 
 桐生一馬と春日一番は、どうでしょう。
桐生一馬は7外伝のサブストーリーにおいてヒマワリは風間の作った洗脳施設だ、といったことを言われていました。正直筆者もそれは否定できないなあと思ってしまったし、桐生自身もそれに対して明確な答えは出せていないように思えました。そもそもヒマワリ自体が風間の殺した人々の子どもたちを集めた施設、というのがなんともマッチポンプ感を加速させます。筆者は風間に育てられていないので、そこだけは感情移入できていないポイントです。風間自身が意図していないとしても「結果として」洗脳施設になってしまっているという面はあると思います。
春日一番に関しては、「あんな救われ方したら荒川真澄が神様になってしまうのも仕方ない」と筆者は思っています。なので荒川真澄のための行動まではどのようなことをしても理解の範疇です。ただ今回、その荒川真澄のための行動の範囲が拡張されすぎて、春日一番はプレイヤーの手を離れスーパー完璧聖人になってしまっているなあとも思いました。それは彼自身の自己洗脳によるものなのかなとも。
 
話が二転三転して申し訳ないですが、7の春日一番に対して、筆者は「人間らしい」と感じていました。それは若がどんなにクソ野郎(敬意を持ってこう呼ばせていただいてます)でも、死なないでほしい、やり直してほしいと思っていたところです。これだけ聞くと聖人じゃんと思われるかもしれませんが、あの時の一番の行動原理は「情」のみです。どんなに悪いことしても、どんなに嫌な奴でも、長いこと一緒にいたことで(世間一般では家族の場合が多いでしょうか)、ロジックなどなく、ただただ生きていてほしい。桐生に比べて論理的に動くことが多い一番が情だけで言葉を絞り出していたからこそ、中谷さんの最高の演技も相まって、龍が如く7を神ゲーたらしめていたわけです。
 
 8の一番は怒ることをせず、「全部俺のせいだ」とすべて自己責任論で片づけてしまっているように思いました。(これは龍が如くの主人公がほぼ全員発症している病気でもある)
まあそれがあるからナンバの絆ドラマでめちゃくちゃ泣いたんですけどね。ナンバにはどうにか一番のこの病気を根気よく治療してやってほしいものです。できたら桐生のも(余談)
あと口ゲンカの一つくらいできないとサっちゃんと結婚生活送れないと思うよ!(マジの余談)
 
 とかいろいろ言ったけど、普通に一番はいいやつだし筆者も大好きです。春日一番の生誕くじを100連以上して破産したくらいには。ただ7をやっているときも思ったけどやっぱり俺は桐生一馬で、春日を自分とは思っていないということ(書いていて自分を桐生一馬と思っていることがそもそも異常なのかとも思った)。それがW主人公制度によってより明確になってしまったな。序盤でもう答えは出ていたのですが、結局自分が桐生目線でプレイしているから、花輪の死にダメージを受け英二を自分の背中で背負えなかっただけなのです。これから筆者は英二を背負っている一番を、ゴミを投げずに並んで歩いていく傍観者として今後の龍が如くシリーズを楽しんでいこうと思います。
なので、筆者が勝手に受け取った「春日は許したぞ、お前はどうする?」の問いには勝手に「俺は一番にはなれなかった」と答えさせていただきます。それでも、なるべくゴミは投げない側の人間になろうと、そう思いました。その程度の富しか筆者は持ちえない。
 
ここまで読んでくださった方、いらっしゃったらありがとうございます。今後、桐生一馬の死生観についてや、龍が如く8全体のシステムや物語についてなども感想としてまとめていきたいと思いますので、よかったらまた読んでいただけると嬉しいです。
 

全体のまとめ


花輪がいなくなってめっちゃ悲しい

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