自己満足の塊

友人とご飯に行く度、人を変えてはよく「ファンとは?」という話をする。

あくまで、個人的見解のもとでの話になるのだが、という前置きのもとで、昨今のファン定義に色々言いたいことがあるのです。

そもそも、まず「ファン」とはなんぞや?

と思ったら、こういうことらしい。

しかし近頃、どの界隈のファンにおいても、『TO(トップオタ)思想』なるものが存在している。元々は、AKB48だとか有名女性アイドルグループから始まった文化のようですが、地下アイドル、ついにはお笑いの現場にも、ちらほらそういう思想の方が現れはじめた(気がする)。

全現場に赴き、お金を使う。自分の時間と持ちうるお金を、ほぼ全て推しに使う。それが、TOだと私は解釈しています。

とある推しを好きになった初めの頃は、「私もTOになるゾ〜〜〜❕」などと意気込んでいましたが、そうなるには、今の職を手放すしかなく、そう思うと頑張って通ったワケありの大学生活5年間が、虚無と化してしまうので、あっさり諦めたスーパー貧乏奨学生は、思うのです。

「それ出来んの、親がボンボンな金持ちのニートしか無理」

と。

そして、私にはそんなのなり得ないと感じてから、甚だTOという思想が嫌いになりました。

いるかは知りませんが、私の好きな人のTOからしたら、ただの負け犬の遠吠えだ、僻みだって捉えられるでしょうけど、別にいいっすわ。

TOになるために、奮闘してる皆様を決して否定してるとか、そんなんではないんですけど、全通(ライブに全部行くこと)とか、高価なプレゼントとかって、結局全部、自己満足なんですよね。



出待ち=サービス残業っていう考えが、お笑いの現場にはあって、それには私も納得の等号だと思っていますが、結局それも自己満足。
サービス残業だから、差し入れしないで出待ちしてる奴何なのって言ってる声も、たまに見かけますが、確かにそう。だけど、それも自己満足。出待ちをサービス残業と認識してるが故に、差し入れすることで自己肯定してるだけだと、最近思うようになってしまいました。

あと、お笑いの現場だよく見る自己満足は、単独ライブの花。人気どころになると、TOになりたい同士のスタンドフラワー合戦。とれだけ大きくて、可愛くて、見栄えのいい花を出せるか、そこでお金のかかり方がわかるシステム。


かつては、同じファン同士、複数人からお金を募って、連名で1つの大きなものを出すことが主流だったように思えるのですが、最近はそうじゃない。自分一人で、「ファンより」っていう体裁のいいようにしてスタンドフラワーを出す。それが何個もずらりと連なってる光景を見ると、それがその芸人さん(に限った話ではないが)の、人気パロメーターとなっているように思える。けれども、そこにはファン同士の厄介なバチバチが見え隠れしているわけで、それもまた自己満足ではないか。

……と、長々書いたわけですが、結局何が言いたいかっていうと、

結局、誰が一番のファンだなんて、決めるのは応援されてる本人たちだよね〜〜〜〜〜

だいぶ前に質問箱に来た質問ですが、それは本当に本人たちが望んでることなんでしょうかね?

一番のファンに認められようと、他のファンを蹴落としてるのであれば、
自分が一番アピールしてるようなそんな現場、行き苦しいよ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!

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