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個別性という面倒と向き合う



私たち人間は二つの側面を持っています.
一つは「生物体としての人間」,そしてもう一つは「生命体としての人間」.

生物体としての人間は,万人共通の原理です.
一方で,その共通性をどのように生活過程に活かすかという ”個別性” については,一人として同じ人はいません.

例えば,生命を維持するのに食事が必要,というのは万人共通で,
じゃあ何を食べたいかというのは,人それぞれである,というように.

介護はこの共通性と個別性,両方に焦点を当て展開されるべきものです.

だけれども.
仕事をしていて,この個別性ほど厄介かつ面倒くさいものはないかもしれない,と感じます.

さすがにいつも思うわけじゃない.
特に思うのは,精神的・時間的に追い詰められている,夜勤明けです.

明け方多忙な業務に追われ,寝不足で精神的余裕もない状態.
そんなとき利用者さんからこんなご要望があるケースがあります.

「もう朝だけど,私はもうちょっと寝ていたい.また後で呼ぶのでその時ベッドから起こして.」

「今日はこの服を着たい.こっちの服は今すぐ洗濯してほしくて,なるべく早く返して」

「朝の牛乳は冷たいとお腹下すから,温めて提供欲しい」

「さっきトイレに行ったけど,なんだかもう一回行きたい」

ちょっとした,人として当たり前の希望です.

「わかりました!!」と応えつつも内心...

「きゃ〜〜〜〜すごい忙しいのにすごい色々言われるやん〜〜〜」

グッと飲み込みつつそんなことを思っている.
利用者さんにとっては,私が忙しいとかは関係ないですからね.

(無理なことはちゃんとご説明して,わかっていただける場合もありますが.)


こんな時です.
その人をその人たらしめる「個別性」って厄介だよなぁ,と私が感じるのは.

みんな同じであればどれほど楽だろうか,なんて,しょうもないことを考えている.


そんな思いを心に持ちながら先日,研修で「身近な人のケアプラン(※)を立ててみる」というワークをやりました.

※ケアプラン : 介護をどう受けていくか?という,被介護者と家族のための計画書のこと.

研修では,
例えば,自分の親や友人が介護が必要な状態になったら?
本人や介護者である自分たちのために,どんなプランが最良か?
というのを考えました.

私が考えたのはお父さんの場合.

・家族と猫が好きなので,可能な限り施設でなく自宅で過ごしたいだろう.

・でも家族に迷惑や負担はかけたくない,という思いが強いだろう.

・食べるのが好きだから,栄養食とかじゃなく時々は唐揚げとかお母さんの卵焼きとか,好きなもの食べたいだろう.

・ぽっちゃり体型なので,着脱しやすい大きめの服を着るのがいいだろう.

上記を踏まえてどんな介護を展開していくか??を考えました.

自分にとって大切な人のケアプランを仮に思い描いた時,当然,尊重したいのはその人の「健康」と「幸せ」以外のなんでもないんですよね.

それを考えるうえで,その人の個別性への理解は必要不可欠です.

例え体がどんな状態になったとしても,最期まで自分らしくいたい.
その人らしくいられることを支えたい.

そう思うのが自然なことだと思います.

私が業務上,「もしなければ...」
なんてとんでもないことを考えた「個別性」は,
誰かにとって世界一美しいものなんだなぁ,と,このワークで気付かされました.




そして個別性の必要性について,もう一つ.

「個別性がなければ人類はとっくに滅びている」ということ.

例えば,このコロナ禍において人間全員が同じ行動を取ったらどうでしょう?


緊急事態宣言が出ていて,ワクチンを打つ人もいれば打ちたくない,という人もいます.

例えば,死に至るような副反応が出た場合,ワクチン接種をした全員が死にます.

だけど仮にワクチンを打たなかった人がいれば,感染症にかからなければ生き残ります.


緊急事態宣言が出ていて自粛する人もいれば,気にしながらも県外に行く人がいる.

例えばそこに大津波が来て,その地域の人が全員同じように自宅にいたら,みんな死にます.

だけど仮に県外に出ていた人がいれば,その人は生き残ります.

何が良い,とかが言いたいわけではなくて.
みんな同じ行動をとれば,いつか全滅する可能性がある.

違うから,私たちは生き残ってきた.
私たちは「個別性」を必要とする生き物なのです.



何が言いたいかというと.

個別性は面倒だけど,「誰かの愛」と「人類存続」のために,私は明日もその面倒ごとと向き合うんだよ,ということ.

忘れないように手のひらとかにマジックで書いときたいよね,という私の個別性.

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