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平和を求める祈り

そういえば、
「理解されるよりは理解することを、私が求めますように」
という一文は、
学生時代にキリスト教概論という講義で頂いた、
カードに書かれた文章。

愛の讃歌とともに、大切にしている言葉です。
覚醒以前から、心がピンチの時ほど唱えていた言葉。
ちなみにこれは聖書の文章ではないそうです。

聖フランシスコの平和を求める祈り

主よ、私を平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところに赦しを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤りのあるところに真実を
疑いのあるところに信頼を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
私が求めますように

私たちは与えるから受け
許すから許され
自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから


ただ、よく考えてみると、
主よ、とか、
自分を捨てて死に、とか、
永遠の命を頂く、とか、
具体的にはわからなかった。

どこかのブログか何かで、
この解釈を知った。


「主」というのはこの宇宙を作った存在だと思えばしっくりくる。
キリストはアセンションマスターなのであって、本来の神ではない、という解釈です。
キリストが神、と信じていればそのままで良いのですが、
私も含め無神論者の方が多いと思うので、
この解釈がしやすいかと。

実のところ、
グレートセントラルサン、という存在がそれにあたるらしく、
そんな高次な存在が、宇宙全体を愛に満ちた世界にするために成長している、らしい。
神ですら、学び成長しようとしているらしい。

それから、
「自分を捨てて死に」は、
自我中心=三次元の自分を捨てて、新しい価値観で生きる自分に生まれ変わること。
個人レベルでアセンションすること、とも言えるかも。
「永遠の命を頂くのですから」は、
魂そのものに戻ること。
肉体は滅びるけれど、魂は永遠に生きる。
それを理解すること、もしくはその魂のまま生きること、なのではないかしら。

日本語って、
母国語だからこそ意味を限定しすぎてしまう
ように思う。
「信仰」という単語も、
「信じること」に置き換えると良いかと。

信じる宗教によっては、
魂は肉体と同時に終わる、
と教えられることがあるようです。
その他もろもろ、
人それぞれ信じるところは異なると
思います。
ので、これらは、
あくまでも私の解釈と思ってください。

〇〇よりは〇〇を、
の〇〇は、波動の両極とも言えます。
だからといって、
単純に
いいとか悪いとかの話ではないのですが、
波動を上げるための、
カルマを解消するための、
指針のように読んでもらうといいのかな、
と思います。😌

愛されるのも、理解されるのも、
結構大事。
それ以上に、
愛すること、理解すること、
理解しようとすること
が、魂の成長には必要と感じます。
人によって違うものかもしれませんが。

ただ、私はやり過ぎてるのかなぁ…
ハイヤーセルフに、
「あなたはお人好しが過ぎる」
と言われたことがある💦
時々誤作動をしていたらしい。

つらつらと書き綴りましたが、
思い出した、大切な言葉の紹介でした。

最後までお読み下さり、
ありがとうございました😊

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