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日本の歴史の流れ  part11 「武士と幕府はご恩と奉公」

 さて、今までは朝廷という大きな力が日本を動かしてきたのですが、もうひとつ幕府という大きな力が生まれました。

朝廷が天皇を中心とするのに対して、幕府は武士が中心となります。

幕府は武士に対して領地の所有を認めてくれました。てがらを上げると新しい領地をもらえました。これをご恩といいます。武士は嬉しいですよね。土地があれば耕して作物を作ったり、作物を売ってお金にしたり、屋敷を建てたり裕福になれます。

そして武士(御家人)は、いざというときは幕府のために戦いました。これを奉公といいます。

幕府と武士はこのようにご恩と奉公という形で信頼関係が保たれていました。逆に言うと、武士が幕府のためにがんばったのに、武士に領地をくれないと信頼関係がくずれて幕府はつぶれてしまうのです。このように土地を仲立ちにとして主従関係を結ぶ仕組みを封建制度といいます。

なんやかんやで源頼朝の死後、源氏の将軍は3代で絶えました。

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幕府は源頼朝の奥さんの北条政子と、その父ちゃんの北条時政が中心となりました。北条氏は執権という将軍を助ける役職について幕府の政治を進めました。

ちなみにこのころ京都では後鳥羽上皇が院政を行っていました。院政とは天皇が地位をゆずって上皇となったのに政治を行うことです。天皇を辞めたんだから、裏でおとなしくしてればよいのに政治を行っているのです。今なら老害認定まちがいなしですね。

そんで後鳥羽上皇は、幕府の源氏の将軍が絶えたことをきっかけに、幕府を倒して朝廷の力を回復させようと考えました。1221(承久3)年、兵を起こしました。

北条政子を中心とする幕府は、東国の御家人(武士)たちを結集し、上皇の軍を破りました。これを承久の乱と言います。この結果、鎌倉幕府の力は西国にも広まりました。具体的には⇩

・幕府は後鳥羽上皇らを島根県の隠岐(おき)に追放

・朝廷の監視のため、京都に六波羅探題を設置

・上皇に味方した公家や西国の武士の土地を没収

・東国の御家人をその土地の地頭に任命


このように幕府の力が西国まで広がると、御家人と荘園領主の間で、領地をめぐる争いが増えました。

そこで執権の北条泰時は、御成敗式目を定めました。

これは御家人たちが土地の争いの解決を幕府に訴えてきたとき、裁判を公平に行うための基準です。

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ちなみにこのころの武士のくらしなんですが、ふだんは自分の領地に住み、戦いに備えて武芸にはげみました。戦いがないときは、鎌倉や京都を守る役目を果たしました。

農民のくらしといえば、二毛作が広がったことがあげられます。稲のあとに麦を植えました。また商業も盛んになって、商品と取引する市(定期市)が各地で決まった日に開かれました。

次回は鎌倉幕府が滅びます。幕府と武士の間の信頼関係がくずれてしまったようです。その原因である元寇についても話しますね。


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