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日本の歴史の流れ part12 「鎌倉幕府と元寇」

日本が鎌倉時代にあたるとき、中国では元が力を持っていました。モンゴル人によって中国は支配されていたのです。

元は高麗(今の韓国)を従えていました。

次は日本を従えようと調子に乗って、幕府に使者を送りました。幕府(執権の北条時宗)は激おこで拒否しました。

そこで1274(文永11)年、元と高麗(韓国)の連合軍は、九州の対馬・壱岐を襲いました。そして九州北部の博多湾に上陸。

応戦した御家人たちに対し、元軍は火器を用いて集団で戦う、ばり強い人たちでした。戦い方が火と集団という点で斬新(ざんしん)。

しかし暴風雨の影響で元軍は退きました(文永の役)。日本ラッキー。

幕府は再度の侵攻に備え、御家人たちに命じて、博多湾の沿岸に石垣(防塁ぼうるいと読む)を築かせました。

そして7年後の1281(弘安4)年、こりずに元軍は大軍で攻めてきよった。

しかし、幕府軍の抵抗や防塁などにはばまれて上陸できませんでした

さらに暴風雨の打撃を受けて退きました。またかい…(弘安の役)

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さて、武士(御家人)は奉公として元軍と戦ったのだから、ご恩として領地をもらうことを期待するのは当然です。しかし、土地をもらえず武士は幕府に不満を持ち、武士と幕府の信頼関係がくずれはじめました

ここに目をつけるのが朝廷です。朝廷は幕府を倒すことを狙っています。

幕府に対して不満を持っていた後醍醐天皇は、幕府を倒し政治の実権を朝廷に取り戻そうと兵を起こしました。

楠木正成(くすのきまさしげ)等の新興の武士や、有力な御家人の足利尊氏や新田義貞らを味方につけ、ついに鎌倉幕府を滅ぼしました。1333年のことです。

鎌倉幕府よ、さようなら。

次は足利尊氏の室町幕府に入ります。

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