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日本の歴史の流れを簡単にまとめてみた part34「大日本帝国憲法と国会開設」

板垣退助をはじめとする自由民権運動は憲法の制定と国会開設を主な内容とするものでしたね。

1⃣まず憲法に関して

伊藤博文は、ヨーロッパへ留学し、帰国後、皇帝の権力が強いドイツの憲法を参考にして憲法の草案(下書きみたいなもの)を作りました。

日本は天皇制だから、皇帝がいるドイツの制度仕組みが日本に合っていると考えたのでしょう。

そして大日本帝国憲法が発布されました(1889年)。

この憲法では主権が天皇にあり(天皇が主役ということ)、天皇が軍隊を統率し、戦争の開始を宣言すると定められました。

また、この憲法では、言論の自由などの国民の権利も認められていましたが、法律によって制限されていました。これはどういうことかと言うと、

権利とは本来、生まれながらに持っているもので、人や国家から与えられるものではないものです。

しかし、この大日本帝国憲法が認める権利は、生まれ持ったものではなく、あくまでも天皇様が与えて下さったものであり、法律によって制限することができるというものです。いつでも法律によって取り上げられてしまうようなものです。

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2⃣国会の開設に関して

政府は自由民権運動の高まりを無視できず、憲法発布の翌年である1890年に国会を開設することを約束しました。

そして、国会の開設に備えて政党をつくる動きが進みました。

政党とは、同じ考えを持った人の集まりです。1人の意見より、100人の同じ意見の方が数の上では強いのです(100人の意見が優れているという意味ではありません。数が多い方が選挙では有利ということ)。

選挙において、1人で戦うより、同じ考えかたをもった100人で戦うほうが、より多くの票を得ることができる、その結果、当選して国会議員になれるのです。

板垣退助は自由党という政党を結成しました。自由が大切と考えたのですね。

大隈重信は立憲改進党という政党を結成しました。立憲とは憲法にもとづく政治ということです。これが大切と考えたのですね。

そして、ついに憲法発布の翌年、第一回の衆議院議員の総選挙が行われ、最初の国会が開かれました(帝国議会)。

国会(帝国議会)は、衆議院と貴族院で構成されました。

国民の選挙で選ばれるのは衆議院議員だけ

貴族院は皇族や華族が選挙をせずに議員になれました。この点では完全な民主国家とは言えないですね。ま、そもそも国民主権ではないので仕方なし。

また、選挙権を持つ人は、超高額の税金を納めた金持ちの25歳以上の男子だけでした。

その結果、選挙権を持つ人は国民全体の1.1%にすぎませんでした。

要するに、この時代の国会は、貴族や超金持ちの議員で構成されるものであり、一般国民の意見からは遠いものでした。

でもまぁ、国会もできたばっかで仕方ない。まだ民主主義は成熟していない。少しづつ、一般国民の意見の反映されるような選挙制度になっていきます。


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