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日本の歴史の流れを簡単にまとめてみた part23「鎖国終了のわけ、アヘン戦争」

江戸幕府は鎖国政策をとりました。つまり、日本人が海外に行ったり、海外と貿易することを禁止しました。1640年あたりです。それから200年くらい鎖国のもとで、そこそこ平和な時代が続きました。

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ところが、江戸幕府は鎖国をやめて開国することになります。

なんでだろう。なんでだろう(古い)。

ちょうどそのころ、中国でアヘン戦争というものがありました。


イギリスでは茶を飲む習慣が広まり、中国の清から大量の茶を輸入していました。

しかしイギリスの綿製品は中国では売れず、貿易は赤字でした。

そこでイギリスは麻薬(アヘン、インド製ね)を中国に輸し、その代金の銀で茶を輸入しました。

アヘンは中国の上流社会にも広まり、害が深刻なものとなりました。

そこで中国はアヘンを厳しく取り締まりました。

これがきっかけとなりイギリスは中国と戦争を始めました、これがアヘン戦争です。

中国としてはたまったものじゃない。明らかイギリスが悪い。

ところが、中国はイギリスに負けてしまいました。

イギリス強し。

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幕府はこれを知り、欧米ってほんと怖いとプルプル震えました。

そこで幕府は鎖国をしていたのにもかかわらず、日本に来航する外国船には燃料や食料を与えるようになりました。こわいこわい。

そんなときにやってきたのが、あのアメリカ人のペリーです。

アメリカは日本を開国させることを考えていました。

なぜなら、アメリカの捕鯨船や中国との貿易船の寄港地として、日本の港が必要だったからです。

そこでアメリカはペリー(東インド艦隊司令長官)を、日本に派遣し、大統領の国書(手紙ね)を日本政府に渡すことにしました。

そして1853年、4隻の軍艦を率いて神奈川県沖(浦賀)に現れました。

軍艦というのがポイントです。戦う気マンマンです。

ビビった幕府は、軍艦の威力におされて大統領の国書を受け取り、来年の回答を約束しました。

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来年の回答を約束したのですが、アメリカは本当に1年後の1854年にやってきました。

幕府☞「うわっ、マジか、確かに来年って言ったけど、来年って気が向いたら、という意味でリアルに1年後という意味じゃないんだよ」

今度はペリーは軍艦7隻で来航しました。

幕府☞「おいおい、また軍艦だよ、ヤベー奴。しかも3隻増えとる。これ開国を拒否したら間違いなくやられるタイプ」

もう、幕府は後には引けません。日本政府お家芸の問題の先送りは死を意味します。

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そこで幕府はペリーが上陸した横浜で交渉し、日米和親条約を締結しました。

この内容は簡単に言うと下の3つです。

①静岡県の下田と北海道の函館の2港を開く

②下田にはアメリカの領事が滞在する

③アメリカ船に燃料・食料・水を補給する


日本が200年ぶりに開国した瞬間です。


注意が必要なのは、この段階では開国はしたが、自由な貿易が許されたわけではないということです。自由な貿易のためには次の段階に登る必要があるのです。




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