「みんなと同じ」になりたかった

 ティム・バートンの超初期作『フランケンウィニー』(1984)を観て、ハッキリ言ってイマイチだと思った。
 気になるポイントはfilmarksのレビューに書いたけど、他のレビューを見ると高評価をつけている人が多い……。ティム・バートンの作品だからということで無意識に過大評価してない??

 でもまぁ『フランケンウィニー』(1984)は初期作なわけだし、ティム・バートン自身にとっても納得のいかないところはあったんだろうな〜と考えて、『ダンボ』(2019)を観てみた。
 初めからなんか合わないなぁ……と感じて、ダンボとママが引き離されるところくらいで観るのをやめた。最後まで観ていないからレビューは書かないし点数もつけない。

 どうも私はティム・バートンと感性が合わないようだ。
 そういえば『ビッグ・フィッシュ』も「女の子の服可愛いな」「パッケージのシーンのお花綺麗だな」くらいの印象で、話自体はなんかしっくりこなかった記憶がある。
 ああいうワンピースって今は結構売られているけど、昔学友に「この女の子みたいなワンピースが着たいんだ〜」と言ったら「かなり個性的だね……」と言われた。私はどうも時代を先取りしすぎる。

 『コープスブライド』は結構好きだけど、『チャーリーとチョコレート工場』もハマらなかった。映画はイマイチ……と思いながらヴィレヴァンでよくウォンカチョコを買っていた(美味しくてハマっていた)。

 『シザーハンズ』と『スリーピーホロウ』は結構好きだった気がするんだけど、もう観たのが昔過ぎてよくわからない。

 私は「みんなと違うワタシ✨」をしたいわけじゃなくて、みんなと同じように「ティム・バートン最高!(*≧∀≦*)」と感じたかったんだ。テキトーに表面上の言葉だけで周りに調子を合わせるんじゃなくて、ちゃんと心でみんなと同じように感じてみたかった。だから『フランケンウィニー』で懲りずに『ダンボ』も観てみたのに……。

 みんなと同じように、みんなと同じものを「好き!」と感じたかった。
 でも「好き」はコントロールできない。

『ダウントン・アビー』のトーマスを思い出す。彼も自分の「好き」は恥じていないけど、「みんなと同じ」になりたいと悩んでもいた人。

 大ヒットした 『ラ・ラ・ランド』も私は好きになれなかった。ライアン・ゴズリングの演技と全体のファッションだけは良かった。でもそれ以外が全部嫌だった。

 みんなと同じになりたかったから、自分の「好き」を偽った時期もあった。自分の気持ちは無視して、みんなが好きと言うものを好きと言って、それを本心にする努力をした。その結果、私は自分のことも周りの人のこともみんな嫌いになってしまった。
 だから私はもう自分の「好き」を捻じ曲げることはしないと心に決めている。それ自体は誇りに思っているんだけど、誰とも「好き」を共有できなくて寂しい。「誰とも」と言うのは大袈裟で、filmarksで私が高評価をつけている作品に同じように高評価をつけている人もたくさんいるわけだから、そういう意味では「好きの共有」はできてるんだけど、顔も知らない誰かとしか共有できないというのが悲しい。

 自分を偽らずに感じ方や価値観を他人と共有できる日なんて来るのかなぁ……と悲観する。そもそも「共有」なんて必要なのか?本当は必要無いものなのではないか?と視点を変えてみる。
 何が正解かはわからないけど、とりあえず私の中にはこういう気持ちや思考が存在している。それは事実。

-miinyan-

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