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週末、夜の散歩は「泥棒貴族」へ

夜な夜な猫は散歩に出かけたがる。一体どこへ行くのかというと、集会に出かけたりする事もある。猫だって、たまには人間と離れて同じ種族同士で集まりたくなるのだ。きっと。

近所に空き地があった頃、猫の集会を見た事がある。空き地(実際は駐車場;猫にとってはアゴラ)に10から15ほどが集まって、ソーシアルディスタンスを取りながら(互いの距離が微妙に開き、空間的にも分散していた)、おとなしく座っている。一体、何をしているんだろう?

しばらく観察したが、何も起こらない。互いの距離を縮めるのでもなく、ただ座っているだけだ。ずっと観察している訳にもいかず(不審者的に見られてしまいそうで)、その後どうなったかは知らない。

「ウェストサイドストーリー」(猫の集会を見た時点では1961年版しか存在していない)のような場面<対決シーンまたはダンス会場の場面>になることを少し期待したが、やはり猫と人間は行動特性が全く違うようだ。水族館のペンギンのように、自分の居やすい場所でじっとしていた。

ところで、猫の集会を見た地域ではないが、若い頃住んでいた町に<泥棒貴族>があった。映画好きなシニアが<泥棒貴族>と聞くと、映画の「泥棒貴族」(※)と思うかもしれない。私は「泥棒貴族」は見た事がないので映画のお話ではない。夜のお散歩で行った集会場(猫と違って有料)の名前だ。

映画「泥棒貴族」の原題は”gambit"。日本で公開される映画は原題と異なる題に変換されているケースも多い。”gambit"にはチェス序盤の差し手という意味のほか、交渉の口火となる言葉や行動、策略や戦略という意味があるそうだ。

その<泥棒貴族>は建物の半地下のような場所にあった気がするのだが、二十人も入れば満杯となるナイトパブの名前。ネーミングの裏に、そういう映画的な背景があったのかどうかは今となっては不明だ。お店を切り盛りしていた人は貴族風ではなく一般人よりは泥棒さんに近い(この職種の方に会った事は無いので想像)雰囲気。ただし、まっとうで安心なお店だった。

ぱくたそ

その頃、金曜の夜だったか、土曜の夜だったか記憶は定かではない。私が所属していた会社の人間が多く住む町にあったその店は、先輩から同期までが三々五々集まって一夜を過ごす独身者の溜まり場になっていた。私たちは猫の集会のように、そこに向かった。

独身貴族とはとても言えない面々が、日常の激務(当時は辛いという意識も無かったが、今振り返ると現在の三六協定などお笑いごとのような忙しさで、蓄積していく残業代は酒か車に消えていった)から解放される場所だった。

入社当初は何度か通ったが、その後歳を重ねる内に遠のいた。パンチパーマでサングラスのマスターはいかにも怪しげだったが、明るくフレンドリーで夜の華。先輩たちがカラオケをBGMに歌い踊り、マスターはマラカスを振り新人の自分たちは盛り立て役になる。所属部門と異なる部署の先輩達と親密になれる空間であった。そういう場所は、その町にいくつかあった。

あれから何十年もたち、生活も住む場所もすっかり変わり、あのお店がどうなっているのか知る由もない。もし、あの店が健在であっても、昔のような活気はもう無いんだろうと思う。集まりにくく、飲食の場を避けがちな昨今。閉店ばかりが目立つ世の中。経済的な圧迫によって完全閉店しているかもしれない。

異なる世代、異なる立場の人間同士がインフォーマルなコミュニケーションを進められる場、日本人の元気作りの場が失われている。

映画「泥棒貴族」は大富豪から何かを盗もうとする者が策略を巡らすお話しのようだが、現在の世の中は逆に見える。水戸黄門のような勧善懲悪ものは流行らないし流れなくなった。経済的勇者がヒーローのように喧伝される小さい世界。

もし、スーツを着て一般人と同じ様子を繕った貴族が、「百万ドルをとりかえせ」(ジェフリー・アーチャーの小説)の登場人物、メトカーフのように、ありったけの資産を使って大泥棒を働くなら一般庶民がそれに立ち向かうのは到底無理。勧悪懲善の風潮が進み、憂さ晴らしの場所は減り、そこで働く人も少なくなり、向かう気持ちも薄れていく。それを良しとして良いのだろうか?

2022年のゴールデンウィークの3年ぶりの活況を見てちょっと楽しい気持ちになった。人間だって猫のように動きたいし集まりたい。他国はもうとっくに舵を切っている。日本も軌道修正する時に来ていると思う。

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