アニメーションを研究するということについて

本論はアニメーションを研究するという文脈においてわれわれが抱いている誤謬を認めていくという態度に終始一貫する。これは、"アニメーションを研究する"という行為がすでに包括的であり、たとえばコスティキャンが「ゲーム」という言葉の定義に挑戦したときのように、この「アニメーション研究 」 という言葉もまた「~ではない」という積極的ではない定義づけにせざるをえないためである。
ただし、ここで誤謬を"認める"とは"正す"ということではないということにも留意されたい。まさに誤謬を認めるとは論じることの限界を知るところから始まる。

たしかに、驚くことによって人間は、知恵を愛求(哲学)し始めた。初めには、ごく 身近の不思義な事柄に驚き、少しずつ進んで遙かに大きな事象についても疑いをいだ くようになった。
アリストテレス「形而上学」

テレビアニメには、時に人生を踏み外してしまうほどの威力を持った感動的な回がある(つまりそれでオタになるわけだ)。
三才ブックス「現代視覚文化研究 Vol.1 」

哲学の起源が"驚き"であり"疑い"が原動力なのだとしたら、それはアニメーション研究と非常に似ている。われわれは"人生を踏み外してしまうほどの威力を持った感動的な回"に驚き、なぜ感動するのかという問いを原動力に研究し始めるからだ。そしてここですでに「アニメーションは研究しなければならない」という命題が打倒すべき誤謬として立ち現れてくる。
すなわち、そもそもアニメは別に研究しなくてもよいものなのであって、むしろ研究の題材を模索するうえでアニメを見るという態度はそれ自体すでに侮辱にも等しいものだということである。確かにテレビアニメはあなたを感動させるために存在することもあるだろうが、まかり間違ってもあなたに研究させるために存在するわけではない。この表現が気に入らないのであればアリストテレスのように"アニメ"をたとえば"自然"と置き換えてもこの主張は成り立つであろう。すなわち、自然は研究されるために存在するわけではないのである。

我々はしばしば、ある物語が子供達にとっていかに教育的であるかを求めようとする。それが何か教訓を与え、我が子を戒める事を期待する。ズートピアをみて偏見の危険性を知り、多様性のある社会について関心を持つ事などを期待する一方で、ミノタウロスに迫る毒虫と人食いバナナと殺人サイボーグを撃破して山羊を救出するMinotronの13面はあまりに荒唐無稽であるから情操教育的にふさわしくないと判断するかもしれない。
しかし我が子が何かに触れた時、真に何を感じるかを制御する事などできない。ゆえに往々にしてある種の教育的期待は裏切られるのが定めだ。人々はそれぞれ個々の感性と、自身だけの地獄を抱えて生きていく。それは親子に限らず、あの三匹のように常に異なった同じ結びつきを示すだろう。
shu yok「Videogamedrome」 三びきのやぎのがらがらどんの特異性 あるいは野蛮な民話の多様性
『ねえ、少佐。僕はロボットなんでしょうか?』
「どうしたの、急に?」
『いえ、なんとなくそう思ったんです』
「機械のボディを持って、意思に類するものを持っている。そういった意味では、私もあなたも同じ存在ということね。でも、違いがあるとするならば、人間は目的を持たずに生まれるけれど、ロボットは目的を持って生まれてくる。そのくらいの差かもしれないわ」
藤咲淳一「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 凍える機械」
私はロボットではあり
ません
reCAPTCHA
われわれは宇宙の使いみちを知っているだけで、宇宙について何かを知っているわけではない。
深井一 「Redundanz」

ただし、ここでいう"研究"を"なにかを考えること"と置いて等価であるわけではない。もちろんテレビアニメがあなたになにかを考えてもらうため存在することはあるからだ(この"なにか"は"主題"や"テーマ"と呼ばれることが多い)。
くりかえすが、なにか研究のために、また、どこか現実の出来事に対応させようと、人生をよりよいものにしようとしてアニメを見ることは自然からなにか教訓を得ようとすることと同じくらい虚無に等しく、また危険なのである。われわれは「何かに触れた時、真に何を感じるかを制御」されていないからこそこのようにアニメーションを研究することができるのであって、(それは本質的に自分以外の神の存在を否定するものなのであるが、事実そのとおりなのである)目的を持たずに生まれるからこそ、神を自分以外持たず、ロボットとはまた違う地獄(すなわちそれは「自身だけの地獄」でもある)を生きていく。
もちろん、自然はイデアであってアニメもまたそうなのであるが、つまりそういった理念的で永遠的なわれわれが到達すべき真実すらも悲しいかなただ(本当にただ)存在するだけであって、それはそうこの宇宙のようにただ存在するだけである。

「私は神崎美月さんを追いかけてアイドルになりました。私の場合、美月さんに夢をもらった感じですけど、実際にアイカツを始めたらもっとたくさんの夢が見つかりました。みんなに喜んでもらえるアイドルになりたいとか、一緒にアイカツしてるあおいや蘭と頑張り続けたいとか……だからきっと好きなことを追いかけたらその先で見 つかる夢もあると思います。それが、今までアイカツをしてきた私が言えることです。」
アイカツ! 第 22 話 「アイドルオーラとカレンダーガール」 星宮いちご
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ
臨済義玄「臨済録」
倫理学とは何であるかという問いに答えて、それは倫理あるいは道徳に関する学であるというならば、そこには一切が答えられているとともにまた何事も答えられておらない。倫理学は 「倫理とは何であるか」 という問いである。
和辻哲郎 「人間の学としての倫理学」

われわれが工学を尊ぶのはその原点において"驚き"を、また、"疑い"を持ったから(平易な言葉でいうと自然に驚き、なにかを作り、また、誰かに喜んでもらうのが嬉しいから)であってそこに疑問の余地はない。ただし、ここでその成果のための研究をすべて否定しようというわけでもない。そもそもわれわれ自身がすでにヘドロから生まれ出でたものであり、この身体が意志で出来ている以上、同じように成果のため、また要請のためといった卑近な(そう、自分と近しい)部分からも意志は生まれうる。
蛇足覚悟で付け加えるならわれわれがヘドロから生まれ出ているのはむしろ幸運だともいえよう。われわれが本当に神聖な、すべてが価値ある、尊い意志や崇高なる覚悟からできていたのであれば、きっとアニメーションを研究しようなどというところに、いやその生すべてに意味など生じなかったに違いない。 前述の通り、 われわれは自分以外に神を持たないという呪いを浴びせられながらも、いろいろなもののなかからこうしたものを選び取ることによって、ときには我が身を焦がしながら、 あなたと出会い、また、卑近な(そう、卑しい)例でいうとこうしてアニメーションを研究しているのである。
さて、ここで私が問題としているのはアニメーションの研究を仏と据えて盲信していくこと であって、それはわれわれから"驚き"や"疑い"、そして"問い"を奪い去る。 ここでこうした誤謬から逃れるすべの一つとして「研究という行為の限界を知る」、すなわちアニメーション研究とは何であるかと問いつづけていくということが挙げられるのだが、それは(パースが述べたように)誤謬が発生したとしてもそれをすぐさま自己修正できるという数学が素晴らしいものである所以に奇妙なほどよく似ている。

人が一度こうした考えにまで高まった意識をもつならば、人生における決定的に重要なことなど、もっともつまらない重要性に過ぎないと思われるであろう。 言うまでもなくこうした考えは、あくまでもあの世での生を律するにふさわしい考え方である。この世ではわれわれは、日常のありふれた世界に生きるささやかな生物であり、それ自体貧相で小さなものに過ぎない社会的有機体を構成するただの細胞である。われわれはどのようなささやかな仕事であれ、周囲の状況が許す範囲で自分の微力をもって遂行することのできる、人生の仕事を見つけ出さなければならない。われわれはそうした仕事の遂行のためにすべての力を発揮しなければならないから、それには当然理性も含まれる。しかし、すでに述べたように、そうした作業の過程で主として頼りにすることができるのは、魂の部分のなかでももっとも表層的で誤りやすい部分――理性――ではなくて、もっとも深く確実な部分――本能――の方である。とはいえ、この本能もまた発展し成長することができるのである。たしかにそれが担う決定的な重要性を考えれば、本能や感情の発展の運動は非常にゆっくりしたものであるが、それでも本能や感情の発展は理性の発展とまったく並行した形で生じる。ちょうど理性が経験から生まれてくるように、それらの発展もまた魂の内的、外的な経験から生じる。その経験とは、例えば内省であり、あるいは逆境での生活である。またそれは認識活動の発展と同じ本性を持っているが、主として認識活動が提供する道具的有用性の側面を通じて発展する。魂の深い部分に触れることができるのは、その表面を通してのみである。それゆえ、このような内外の経験に対処する過程のなかで、われわれが数学と哲学と他の科学によって触れることを許される永遠的な諸形式 は、ゆっくりとした浸透作用によって、われわれの存在の中核へと達することになる。それらはわれわれのせいに実際に影響を与えるようになる。そしてそれらの形式、イデアのコスモスが、結局のところ人間の生への影響力をもつことができるのはそれらが人生にたんに決定的に重要な真理を含んでいるからではなくて、それ自身がまさに理念的で永遠的な真実であるからである。
パース「連続性の哲学」

重ねていうがアニメを見た結果それが人生においてなんらかの意味を持ったり研ぎ澄まし究めた結果なんらかの生産的なことがらに出会ったりすることが善く、また、人生においてなんらかの意味をもたせようとアニメを見たり、なんからの生産的なことがらに出会うために研ぎ澄まし究めることが悪いということを主張しているわけではないことに注意していただきたい。(科学哲学を論じるほど著者の造詣に余裕があるわけではないのでここでは特にアニメー ション研究に関する主張をするに留めるが、)"研究する"という行為においてその本質を為すのは想像以上に素朴な"驚き"から成るというただそれだけのことであり、逆にいうと研究という題目が先行するかぎりアニメーション研究は成り立ちえない。すなわち(ある種、人によっては善悪二元論よりももっと冷酷な事実であるのだが)本質的にはパースが論じるように"そのイデアは経験に対する対処のなかで""ゆっくりとした浸透作用によって、われわれの存在の中核へと達すること"しかできないのである。もちろん(これもパースが論じたように)娑婆に生きる衆生たるわれわれにとって"どのようなささやかな仕事であれ、周囲の状況が許す範囲で自分の微力をもって遂行することのできる、人生の仕事 を見つけ出さなければならない"のであって、"そうした仕事の遂行のためにすべての力を発揮しなければならないから"論じる――論文を書くという行為は相応に行使されうるし、それらは"物語"と呼ばれる。ただし"イデアのコスモスが、結局のところ人間の生への影響力をもつことができるのはそれらが人生にたんに決定的に重要な真理を含んでいるからではなくて、それ自身がまさに理念的で永遠的な真実であるから"だということはやはり頭の片隅に置いておく必要がある。

世界がひとつの連続であること、私は世界であること、言葉は道具であり身体や鳴き声の遠い延長にすぎないこと、実在が在るのではなくわれわれが実在を見出していること、無意味さもまた意味であること
深井一 「Redundanz」

さて、ここでいうわれわれの書く"論文"とはつまり引用するところの"鳴き声"であってまた鳴き声でしかない。これをブログで発表するヒトもいればバーチャルユーチューバーとして活躍するヒトもいればアニメとして発表するヒトもいて、われわれは単に論文といった形式で発表するだけのことである。ここで「アニメーション研究とは机上のものである」といった命題が誤謬として認められるのだが、すなわちわれわれの"鳴き声"たる論文はなにも原稿用紙何枚分のワードのデータではないのだということであって、それは同時にアニメーション制作と排他的ではないということでもある(むしろ私の主張としてはアニメーション研究とアニメーション制作は相補的なものである、がここでは話題から逸れるため割愛する)。もちろんわれわれがよく知る科学という分野におけるいわゆる"論文"は形式主義的なところがあるのだが、それはひとえに時間的空間的な普遍性を確保しようという試みの一つであって、それはどこかのフランス人が書いた数学の論文がフランス語を、またフランスの文化を知らなくても読めるようになっているというただそれだけのことであり、それは一見尊いように思えるが、それ以前にわれわれが研ぎ澄まし究めていくうえでそもそもなにを論じているのかを明確にしなければならない。

思うに、当時の僕にとって短歌とは、自己韜晦の手段だった。重苦しい自意識から逃れる為の、切なく拙い儀式だった。際限なく膨らんでゆく、自意識という怪物。それを鎮めるためには、定形の鎖が必要だった。
岩崎文也 「夜空の下を」
あたりまえの話だけれど、ぼくは、自分が書いた論文にはそれなりの自負がある。誰もが目にしているのに見ていることに気づいていないものを言語化することによって浮上させる。良い論文は必ずそういうもので、自分の論文もまた、それをしている。だけれども、それが何だというのだろうか、というと、実はたいした話ではない。そんなことは、世界中で何百万という研究者が、芸術家が、音楽家が、小説家が、職人が、技術者が、あるいは生活者が落伍者が聖人が犯罪者が皆、やっていることだ。
CLOUD-LEAF 「蒸散する物語」

すなわち、論を構成するうえで必要なものは論を私の鳴き声としてふさわしいものにしようとするその意志であって、論文の出来のため形式を学ぶというのはこの要素のなかでももっとも低俗な部分にほかならない。事実われわれが鳴き声をこうした論文のような体裁に整えるのは刀たる鳴き声を抜き身で持たないようにするためのいわば鞘のようなものであって、鳴き声を追いかけ感情の深淵に落ちてゆかぬようわれわれはこうした技術を学ぶ。「自意識という怪物」を鎮める場合においてのみ"技術"が要請されるという点においてこうした論と詩歌が似通っているのはなにも偶然ではなく、これらは本当に同値なのであって、それはすなわち聖人が奇跡を、また犯罪者が犯罪を"定型の鎖"としていることと本質的にはなにも変わらないのである。そしてまた、ここで同時に「アニメーション研究とはデータ、根拠論文を提示するものである」といった誤謬もまた認められる。つまり、われわれが議論しているのはあくまでこういう物語を咀嚼しこういう鳴き声が出たというところであって、ここに第三者の存在の余地はなく、われわれにできるのは普遍化のための努力でしかない。

おそらく本書は、ここに表されている思想――ないしそれに類似した思想――をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。――それゆえこれは教科書ではない。――理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

もちろんこの努力もしなくてよいものであって、あくまでこうした努力がみずからの鳴き声としてふさわしいと感じられたヒトのみが採用する手段のごく一部にすぎない。そもそもウィトゲンシュタインも言及しているように他者の鳴き声を理解しようとするならばそうした声で 鳴いている必要がすでにある。われわれの論文が誰かにわかりやすく教示するための教科書となることはないのだ。こうした論は"ただひとりの読者を喜ば"せるために存在することしかできず、悲しいかな真の意味でオタクにとっての布教という行為は達成し得ないのである。こうした"論の限界"を超えうるものがわれわれが(奇妙にも偶然に)研究の対象としているアニメであり"物語"なのであって、すなわちこうした論(論文)は共感を補強することはできるが、共感を得ようとする行為は体験を共起させる"物語"という表現以外成し得ない。哲学は神学の婢なのであるが、神学もすでに神の婢なのである。もちろん物語と論とは二元的でも対峙するものでもなく、そもそも物語性また論性どちらかのみで存在することもできないのだが、ここで大事なのは論という立脚点に立った以上これらをどれくらい含むのか御するということであり、事実この論文は普通以上に物語を含むように作られている。

現象学は、客観性や合理性から出発せず、何よりもまず、「私にとって世界はどう現れているか」というところから出発する。アニメの作品を論じ考察するうえでも、この、現象学的な態度が何よりもまず求められていると考える。アニメ作品を批評する上で本源的なのは、それが客観的にどういう作品であるかとか、どの程度人気があるかとか、どれほどの売れ行きがあるかではない。そうではなく、「私にとって」どうであるかが第一義的であり、そこを起点にしてしか始められない。現象学はそこを起点として、普遍的な認識に到達しようとする。
小森健太朗「神、さもなくば残念。」
この話から僕が得たものは、実に意外な発見だった。僕もとうとう芸術とはほんとうに何のためのものかということが、少くともある意味で理解できたのだ。芸術とは人ひとりひとりに喜びを与えるものだ。それに心酔するあまり幸福になったり、憂うつになったりするようなそんな力のあるものを人間はほんとうに作ることができるのだ!  言ってみれば科学というものはあまりにも普遍的で大規模だから、それを理解して味わってくれる人を直接に知るようなわけにはいかない。
R.P. ファインマン「ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)」

そもそも、驚きを出発点とする以上、アニメーションを批評するということは(もちろんデータ主義的な手法を用いることはできるが)"私にとって世界はどう現れているか"という 現象学的な態度以外取り得え ないのであって、このことは言い換えるとつまり(さきほども述べたように)"われわれにできるのは普遍化のための努力でしかない"。もちろん現象学であるならば"普遍的な認識に到達しようとする"試みは相応に行使されうるのだが、しかしそれはあくまでも到達"しようとする""試み"でしかない。もしもそういった試みを強制しようという科学の身勝手な要請が、われわれの論をチープでうさんくさく、たよりないものだと思わせるのであればぜひ振り返っていただきたいのだが、実は芸術というものの本質はそういった驚きを普遍化することができないというところに存在する。それはすなわち、驚きを普遍化することができないがためにわれわれは科学という作品よりも"それを理解して味わってくれる人を直接に知る"ことができるのであって、我々はそれゆえ(もちろん科学も好きなのだが)芸術を愛してあげることができるのである。

形而下的なことを言えば、どうも、あまりぱっとしない生活だ。それでも、頭の中に何かが在って、言語化してくれろ、言語化してくれろ、と、いつでもぼくをせっついてくる。自分のペースでしか応えることはできないけれど、ここ数年、ようやく、それがナニモノなのか、少し見えてきたように思う。 言語化できないものを言語化すること、それによって本当に言語化できないものを手探りしていくこと、霧の中に一歩、いま踏み込み始めているのを感じている
CLOUD-LEAF 「蒸散する物語」

そして、(くりかえすが)"言語化してくれろ、言語化してくれろ、と、いつでもぼくをせっついてくる"鳴き声のためにわれわれは論ずるのであって、なにか部の存続のためとかだれかに言われたからといった理由で論文を書くのであればそれは自分の意志に対する可能なかぎり最大の侮辱であって、それをくりかえすものはやがて自己を殺し死に至る。これはイデアが"人生にたんに決定的に重要な真理を含んでいるから"生への影響力を持つのではないの と同じように、部誌をやりすごすといった矮小な、また、部のため社会のためといった尊大な (ように錯覚する)目的すらも人生にたんに決定的な重要な真理など含まれてはいない。

それらの「哲学」は、自分たちの生涯を注意深い分析に捧げてきた哲学者たちによる専門的な学説ではない。それらは、生涯を創造的な数学に捧げてきた人間の背景をなす考えなのだ。彼らの哲学の対立は、数学の研究への関与の仕方にはあまり影響せず、むしろ彼らが自分たちの活動をどのよう捉えるかについての違いにつながっている。それらは、生きていくための哲学なのである。各々の数学者の哲学は、その個人にとって意味をもつが、ある人物にとって数学を意味あるものにしてくれるものは、 他の人にとって意味あるものにしてくれるものの正反対であるかもしれない。
イアン・ハッキング 「数学はなぜ哲学の問題になるのか」

さて、さまざまわれわれが認められる誤謬をいくつか拾い集めてきたが、これらに共通して いるのはわれわれが"研究"という言葉に対して処女のごとき潔癖さや騎士のような尊大さを不当に抱いているということ、すなわちわれわれが工学の徒であるためにこういったアニメーションの研究において誤謬を抱くのだということである。これはつまり(アニメーションの研究とは)「机上のみのものである」「ハイカルチャーな文化としか結びつかない」「データ、根 拠論文等を提示しなければならない」「そもそも論文というフォーマットを踏襲する必要がある」「新規性のない研究をおこなってはならない」といった研究的であると思われる誤謬を一 度に発見できるものである。たとえば最後の「新規性のない研究をおこなってはならない」という誤謬に対して言及をしてみても、そもそもあなたが読んでいるこの論文自体、この世界のさまざまな作品を引用して論じている時点で人類有史以来有象無象の凡夫が思っていることをあらためて空也上人のように文字として語っているにすぎない。現実の科学においては新規性というものが真に存在しうるのかもしれないが(それでもすでにこの宇宙に存在していたものまたその組み合わせであり発見という表現がふさわしいのかもしれない)、"私にとって世界はどう現れているか"ということはいつの時代だろうがみな考えていることなのだろう(と思う)。それでもわれわれが翻訳家という仕事を認めたり比喩というレトリックについて感心を覚えるように、自分の言葉で語り直すことはそれが「生きていくための哲学」すなわち"注意深い分析"だとか"専門的な学説"ではなく、"自分たちの活動をどのよう捉えるか"といった"人間の背景をなす考え" であるかぎりにおいては妥当性を持つ。ここでもしこの主張に対し不安を覚えるヒトがいるならば、 たとえばブルーハーツをローリングガールズという言葉で語り直すところを見てみるとよい。

「記憶がそんなに大切か。ここで得た記憶は無駄か」
「いえ……記憶は……僕が闘うためのものだと思うんです。でもここにはきっともう 敵はいないから」
「そうか敵を求めるか?   それは間違いだ。外にもどこにも分かりやすい敵なんぞお らん。そして神様もいない」
何かを思い出したのだろう、宇紗菜さんは今まで見た中で一番穏やかで、それでいて 厳しい顔をしていた。
「だったら……どうすれば」
「自分で考えろ。ニヒリストになるか? それとも自己欺瞞を貫いて信念に生きるか? 考え方を変化させるがいい。神はいないが、人はやっと自由になれたのだ」
「そんな —— 外の世界は無意味なんでしょうか?」
「こことそう変わらない。世界の半分は幻で出来ている」
海猫沢めろん「左巻キ式ラストリゾート」
手で触れられるものが本物なの?
手で触れられないものは本物じゃないの?
今、
ここにあるものは何? 
間違いなく今、ここにあるものって、何?
胸の痛み。 今、本当にここにあるものは、この胸の痛み。
これはまやかしなんかじゃない。 手でふれられないけど、今信じられるのは、この痛みだけ。
電脳コイル 第24話 「メガネを捨てる子供たち」
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす
大森静佳「輪郭のつばさ」
ぼくが生半可な知識で神学について1,000時間語るよりも、あのラストの5分(そしてそれが生きるための、結局のところすべての上映時間なのだけれど)の方が1,000倍の意義を持ち、いや、意義などを超えて、神を伝えるだろう。
CLOUD-LEAF 「蒸散する物語」
この日のすべて、この日にいたるすべての、その全体のなかにこそ、メディアアートというものが現れてくる。そんな論文を、いま書いている。
CLOUD-LEAF 「蒸散する物語」

この主張はさきほどのパースによる"経験に対処する過程"と言い換えてもいいだろうし、 イアン・ハッキングのように"生涯を創造的な数学に捧げてきた人間の背景をなす考え"という表現でもいいかもしれない(お好みで"数学"を読み替えて)。重要なのは作品を経験と対応させ、そして作品という虚構、幻、胸の痛みもまたまぎれもなく経験なのであってそういったものがときたま"神を伝え"、また、半分がすでに幻でできているこの世を〝濡らす〟とい うことである。われわれは26話という"ゆっくりとした浸透作用によって、われわれの存在の中核へと達する"エヴァに乗る物語を見、そしていままで生きてきた私をもって、"この日のすべて、この日にいたるすべての、その全体"をもってして実際にエヴァに乗るのだ。

考えてみると、自分にはもうできないのに、サッカーをしている人々を見たら、相当嫌な気分になるはずだ。でもそうはならない。それはいいことなのかもしれない。新しい人間になる準備ができている証だから。
「かたわ少女」 中井久夫
世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤 独に暮らせ。それも嫌なら……
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 第1話 「公安9課 SECTION-9」 草薙素子
確かに、なかには、ピュロン主義の無動揺(平静)のうちに幸福を見出す人たちもいるだろう。さらに、われわれのほとんどすべてが、折にふれて「この世は耐えがたい」と思い、生活のそこここで、ある程度の内的無関心を歓迎することがある。しかしそれを認めつつなお、絶えざる無動揺(平静)と完全な無関心というセクストスの理想を、われわれは自分の理想とすることはない。われわれはそのような状態をひどく退屈なものとみなすかもしれない――そうわれわれは思う。さらにまた、そのような状態は愚劣だと考えることもあるかもしれない。懸命になったり没頭したりすることは、確かに心を乱すことではあるが、しかしそれは、やりがいのある試みである――最も低く見積もっても、それは生活に刺激と興を添えてくれる。少なくともある人々にとっては、人間の幸福のためには活動と関与が必要であり、彼らはそのために、不安と失望という代償を支払うことさえ厭わないのである。
J. アナス& J. バーンズ 「古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式」
音楽には 2 つのモノがあると思う。永遠に良いモノと今この時代だからこそ輝くモノ。
esehara 「MO"R"TALITY VS ONOMATOPEEE EP!!!」 ライナーノーツ

そして、こうしたこの日にいたるすべての私をもって作品鑑賞に臨んでいる以上、作品の評価たとえば点数が上下するというところは私という存在の不連続性から避けようがないのであって、われわれは往々にして過去の自分の愚かな評価を否定しようという誘惑に駆られるのだが、いまの自分を否定することが叶わない以上連続している過去の自分を否定するということなど叶うはずもない。それはある種消えることのない犯罪者の刻印のようなものだと思われるかもしれないが、こうして自分自身と和解することこそ自分自身を、そしてその過程において のみ作品を理解するということもまた達成されうるのである。前回のオチがそうだったが(編 注:砂上楼閣&少ない著 「 ソーシャルなゲーム時代の生き方 」 アニメーション研究会哲学部発刊)、変わることを恐れる必要はない。むしろ変わった自分を慈しんであげることこそが自分にとっての唯一の報いとなるのだ。
もちろんその誘惑の延長線上には沈黙という選択肢も存在する。「耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮ら」すのも老後の人生としては悪くないだろう。1920×1080ドット8ビットRGBの値のt軸における変動に「懸命になったり没頭したすること」をたまに後悔してみるのもまあ悪くない。「しかしそれは、やりがいのある試み」であることも確かなのだ。「最も低く見積もっても、それは生活に刺激と興を添えてくれる」。われわれは(ある種世の中に不満があろうとなかろうと)自分を変えることしかできないのであって、また、ここが重要なのだが、つまり、自分は変わっており変わっていくのである(変だという意味ではなく――いやまあ変わっているとは思うのだが)。
結局のところアニメを心の平穏を守るため虚無だと思い込むことは不可能なのである。つまり、それほどアニメは"面白い"のであって、無動揺で済ませることなどできやしない。そして、そうしたことから「活動と関与が必要であ」って、 「そのために、不安と失望という代償を支払うことさえ厭」えないからこそ、このように筆を執るのである。そもそも、私がこうして引用している言葉自体、作者らの思惑にかなっているかかなり怪しいところである。だが、批評 ・ アニメーション研究とは言ってしまえばある種ストーカーのようなもので、そうした、読み取られてしまうところにも意味があると考えている。それはともすればひとりよがりな言語ゲームのように受け取られかねないが、ここでよく考えてみてほし いのだがそもそもわれわれは鏡を見なければ自分の姿さえ目にすることはかなわないのであって、そうした他者からの意味抽出にも前述した項目を達成しているかぎり正当性が芽生えるものだと思っている。

CCさくらをもおもしろいと思ったことは一度もないんですが、CCさくらについて何が卓越していたかを語るインターネッツにいる人の話は大体おもしろいんですよね。ある程度以上受容された作品は、その内容以前に解像度高く受容をした人が一定数いるということそれ自体が作品の価値となってくる訳です
山像 @i_yamagata
わたしもそう思う。学問は道に近づくためのもので、書物をたくわえるものではないと思う。聖人君子のことばも、いってみれば、指のようなものにすぎない。 この指の案内によって、まなざしを転じなければ、このむさ苦しい長屋の中しか、われわれは見ることがない。そこが自分の天地だと思ってしまう。しかし、指の先をた どれば、そこには広い空があり、美しい月がある。聖人君子のことばは、われわれを美しい月に案内してくれる指のようなものだ。わたしたちはただ、ひたすらに月をみればよい。無益の文字を追いかけ、読み難きをよみ、解き難きを解せんとして、精神を費やし、 あたら光陰を失ってはいけない。わたしも、あやうく、指をもって月とするところであった。四書五経は指にすぎない。大切なのはその彼方にある月だ。
磯田道史 「無私の日本人」

私がこの論文においてさまざまの引用を骨子としているのはなにも偶然ではない。私自身が さまざまな経験のうちに過去の巨人たちの肩によじ登りようやく彼方の月が見えるようになったおかげであって、これら引用が一つでも欠ければ私ではなくそれを論じないことにはそれこそ虚構の論と化すからであり、このような生きざまをもってアニメーション研究と呼んであげたいという思いがあるからである。私は間違っても巨人ではないが、私ほどの小人の肩でも過去の巨人たちの肩に立っている以上ここに立ってもらえるとより遠いところを見ることができると自負している。私がこのように論文を書くのは皆の蒙を啓くためのものではない。いままでの全人類がさまざまに考えてきた人生に対する戦い(寄り添いと呼んでもよい)を一緒に考えていこうとするためのものであ ってそれはたとえばCCさくらを受容したヒトを増やそうという(そしてただそれだけのための)試みの延長線上に存在する。

でも、そこで彼らが自らを「アーティスト」であると名乗る、自己をそのようにして規定せざるを得ない、そのことの背景にあるものに、やはりぼくらは注意深くあらねばならないと思うのです。それを眺めているぼくらって、いったい誰なんでしょうか。
CLOUD-LEAF 「蒸散する物語」
だが、彼の心はあまりにも現実的で、民衆の指導者たちが人間性改革のためと称する幻想的な計画にまどわされることはなかったし、またそのような計画をつくりだすことが、情熱的な断頭台処刑家の叫ぶような、人間性の偉大さの疑うべからざる証拠だとも信じなかった。「もし本当に偉大な人間精神をみたいと思うなら、ニュートンが白光を分析したり、宇宙のヴェールをはいでいる書斎にはいってみたらよい」と、彼はいった。
E.T. ベル 「数学をつくった人びと〈 1 〉」 ラグランジュ
知性が自然に構造を見出したという代わりに、自然にこのような構造を見出したものが生命や知性であったということが可能であり、これら両表現は相補的であって、そうした関係の全体を、僕は「生活」と呼びたい。
深井一 「Redundanz」
「何者」であるとはどういうことだろうか。革命をもたらすものはきっと何者かであるだろうし、運命を乗り換える呪文はきっと何者かでなければ唱えることができなかっただろう、あるいは何者かになることによって扉は開かれるだろう。果たしてそうだろうか。それはおそらく何者でもないからこそ叶えられたのであり、何者でもないことに身を投じたからこその瞬間である。何者かであるのは、死を生きる者ばかりである。
「ユリイカ9月臨時増刊号」 青土社

私は(まかり間違ってもアーティストでもないだろうが)あまり自らを研究者だとは思っていないしましてや名乗ってもいない。もちろん「研ぎ澄まし究め」てはいるつもりだ(し、人と会うときくらいはわかりやすくそう名乗りはする)が、そうした自己の規定は確かに少しもやっとしてしまう。これは、(慎重に言葉を選ぶと)"生活"なのであって、言葉遊びのとおりそれはまさしく生きる活動なのである。いや、生きるための活動なのだと言ってもよい。ただ生 活している人をアーティストだとは呼ばないのであって、それは(先ほど引用したように)「そんなことは、世界中で何百万という研究者が、芸術家が、音楽家が、小説家が、職人が、技術者が、あるいは生活者が落伍者が聖人が犯罪者が皆、やっていること」なのだ。これほどの人間が生活をしているなかで生活をしていることを誇るほうが馬鹿げているように思えてこないだろうか。私は、むしろ(というかまさしく)そうした生活において「研ぎ澄まし究め」ている人々に、あたかもラグランジュが「ニュートンが白光を分析したり、宇宙のヴェールをはいでいる書斎」で見たような、偉大な人間精神の光を見たい。それは批評家が自然(つまりイデアでありアニメ)「に構造を見出したという代わりに、自然にこのような構造を見出したものが」オタクや批評家であったようなものであって、そして「これら両表現は相補的であって、そうした関係の全体を、僕は「生活」と呼びたい」という気持ちがあるし、アニメを研究していると思い込み、名乗り、規定することによって「何者」かになれるのであれば、私は何者にもなれないほうがよいと思う。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。 事実、そのような人が立派に見守るのは自分の生涯だけではない。彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる。
セネカ 「生の短さについて」

セネカは"生の短さについて"語るなかで"英知(哲学)のために時間を使う人だけが""彼 が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる"と述べている。事実この文章を二千年後の人間がこうして読むことができるように、知を愛することのみが知を愛することによって他の人間から受け継ぎまた受け継がれる、つまりこうした意志が生の短さ を克服できるのだ。

「すず。……聞いてくれ。俺は、お前が幸せならそれでいいと思ってる。だからさ、もしかしたら……どうしても記憶が戻らないならそのままでもいいかな、って心の片隅で考えてたのかもしれない 」
「けど、それじゃ駄目なんだ。お前はもう、人間の世界に繋がりすぎている。その糸 を切る権利は俺にはない、ひょっとしたらお前にすらないのかもしれない 」
「あやかしびと」 武部涼一
「はじまりは孤独で。まず孤独であることを知り、孤独であることのつらさ、不自然さを知る」
「……そのうち求めて、手に入れる。欲しかった関係だよ、それは」
「だけどそれは笛子の言うとおり、永遠のものではないかも知れない」
「いつか何かと引き換えにしろと強いられるのかも知れない」
「……時間は待ってはくれない。だから僕らは大切であればあるほど、それを失った 時のことを考えて生きていかなければならない」
「だから……」
「だから……もし僕らの輪が砕け散ってしまうとしても、今までの楽しかったことを 忘れないようにしようよ」
「そこには最善の今があったんだって力強く思うんだ」
「ただ時間の果てに置かれただけの、むごたらしい結末よりも、価値があると信じよう」
「最後の瞬間によって、それまで歩んだ道筋を評価することをやめよう」
「結果論を捨てる。いずれ残酷な時間に立ち向かうには、それしかないんだから」
「僕は希望を持てとは言わない」
「明るい未来を信じて、賭けろなんて言えない」
「祈る神さまもいやしない」
「僕たちは一人なんだ、笛子」
「……そして、そして笛子はさ!」
「どうしても駄目になったら、僕のところに来るんだ」
「君を食べて、僕の一部にするためだよ」
田中ロミオ「最果てのイマ」 貴宮忍

――自分自身がこのアニメを研究するに至るすべての、また、その結果こうした拙文を書く に至るすべての引用をもって、あなたというアニメーションの研究へと人生へと至る過程へと組み込まれていく――それはある種AIR のような物語なのかもない。 AIRではそれはまさしく乗り越えるための呪いという描かれ方であった。が、しかしそれは母の愛でもあるという描かれかたもしていたように思う。もちろんあなたは批判するだろう。 「愛とは所持欲だ 」 。「他者を所有しようとはなんと傲慢な」 。確かにそのとおりかもしれない。だがそれがなんだというのだろうか。あなたはここまで読んでしまった! ここまで関わってしまったのである! それはね赤ずきん、お前を食べるためだよっ! 「君を食べて、僕の一部にするためだよ」。愛とは、物語とは、関わりなのである。すべてはここから始まる。

物語の根幹は普遍的だ。主人公は他者と出会い、そして物語は動き出すのだ。僕は信じている。この文章を読んでいる君たちによって、ぼくの見たことも聞いたこともない無数の物語たちが奏でられ、世界により多くの混乱と快楽が与えられることを!!!
Kouzuma Sekai 「Maltine Recordsにおける物語の生成条件|失われた20年の子供たち」

あなたは、その生によって私たちを肯定し、またその生によって私たちを否定しなければならず、その使命をもって人生と名付けられたのです。

2018年7月14日 書斎にて
砂上楼閣

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?