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根津1「新坂(権現坂、S坂)」

根津1-21から1-28の間。坂上には東京聖テモテ教会、坂に沿って根津神社がある。界隈の旧町名は根津須賀町。

本郷通りから、 根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、 新坂と呼んだ。 また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
森鴫外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。 …右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、 左は出来たばかりの会堂(注 ・ 教会堂は今もある)で、…坂の上に出た。 地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 …」とある。
旧制第一高等学校の生徒たちが、 この小説『青年』を読み、 好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴫外の命名である。
根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、 綱豊(六代将軍家宜)を世継ぎとしたとき、 その産士神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。
文京区教育委員会
夜はすこし怖い
根津神社正門
東京聖テモテ教会
東京聖テモテ教会内部
旧 根津須賀町(昭和40年までの町名)
もと、甲府宰相徳川綱重(三代将軍家光の
子で五代将軍綱吉の兄)の屋敷があった。網重の子の綱豊(六代将家宣となる)がここで生まれ、団子坂上にあった根津神社が産土神(生まれた土地の神)であった。網豊は網吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に移った。
綱吉は、宝永3年(1706) 根津神社を甲府屋敷の跡に移し、華麗な社殿を造営した。また町屋が開かれ、根津社地門前と称した。明治2年、町名を根津須賀町とした。
根津の名の由来には、ねずみのいわれ、台地の根にあって舟の泊まるところなどの各説がある。
須賀は、根津神社の祭神素戔嗚尊が、出雲
の須賀に宮居を定め、わが心須賀須賀須といわれたによると。
文京区

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